戦場は、一遍に様相を変えた。しいんと静まりかえる。時折、ひゅうと風が兵士達の間をすり抜ける音すらはっきり聞き取れる程の静寂。死体の上にも、静寂を際立たせる風が吹く。
動くのを止めた兵士達の視線は、大砲の傍、マスクを外して素顔のままのサンダルフォンに向けられていた。
「・・・キメラ?」
兵士達の脳裏に、記憶に新しいあの惨劇が蘇る。帝国を混乱の渦に陥れた、キメラ事件。あの生き残り。気味悪いものを、悪しきものを、おぞましいものを見る視線が一気にサンダルフォンの黄石の瞳に集約される。
「・・・あ、」
サンダルフォンもまた、そんな兵達の視線を一身に浴びて、固まっていた。
そんな中、マーヴェラスの告発が、高らかに響いた。
「この化け物共はっ・・・我が結社に潜り込み、キメラの力を使って功績を挙げ、老師の地位に上り詰め、・・・あろう事か私の部下を食らい続け、そうしてチャーチを設立せしめた!
まやかされるな、良心ある人間よ!討ち取るべきは互いの軍勢ではない!!
裏で手を引いてこの無意味な戦争を引き起こした忌々しいあの双子の魔物なのだッ!!」
サンダルフォンの色味の無い唇が、わなわなと震え出す。
違う。
僕達は、にんげんに戻りたかっただけなんだ。
なのに、なのに・・・なのに、
こいつらはそれを邪魔してひとを勝手に魔物呼ばわりする!
「うああああああああああああああ!!」
サンダルフォンの悲痛ささえ籠もった絶叫を聞いて、それが何を意味するのか察し、メタトロンは狼狽した。いけない。目の前のサンダルフォンの両腕が、今まで必死に隠し通してきた羽毛を纏い、真っ白な羽へと変化してゆく。大きく開いた口から鋭い牙がちろと見え始めた。両足はブーツを脱ぎ捨て、禍々しい蛇の鱗を生やした。その異形の姿に、黄石の蛇の瞳に、辺り一帯に立ち尽くしていた兵が怯えの色を見せる。
ばさぁっ、と、分厚いチャーチ軍服のコートを脱いだサンダルフォンは、何をか吠えながら、自軍であるチャーチ兵の編隊に突っ込み、
「ぎゃああああっ!」
その鋭い牙で、自軍の兵士の喉元をかっ切ってそのまま食らい始めた!
「サナ!落ち着け、サナ!」
メタトロンが慌てて駆け寄るも、サンダルフォンとの間に立ちはだかる結社と帝国軍、そして今まで味方だったチャーチの兵。皆得物を構えて、この存在してはならない、戦争の火種たる魔物を伐とうとしている。
どうして。
俺だって、こうなる前は、人間で、よく分からない内に変な研究所に連れられて、
なんでこんな事になってるんだ?なんでこんな事になっちゃったんだ?
「居場所が、生きる目的が欲しかった」だけなのに。
そうしている内にも、絶望と突き刺さる敵意の視線故に錯乱したサンダルフォンは、自軍敵軍誰彼構わず襲っては食らってゆく。その圧倒的な異形の力に、人間は為す術を持たなかった。ぼろぼろと黄石の瞳から伝う涙にも似た体液が、頬にべっとりへばり付いた血糊と混じる。最早何故自分が人間を食らっているのか判らない。お腹が空いた訳じゃ無い。生きる為でもない。目の前に広がる、侮蔑の眼差しが、憎いだけなのだ。血の匂いが殊更サンダルフォンの正気を掻き消してゆく。
その瞬間。びくん、と、はだけた胸から覗くあの宝玉から、サンダルフォンの全身に電流染みたものがほどばしった。驚いて無意識の内に、背後のメタトロンを、己の兄を見た。
メタトロンも、半分獣化していた。細い腕は羽毛に包まれ、足はぐにゃりと骨を無くした様に歪み。
しかしその、サンダルフォンと同じ様に胸にはめ込まれた宝玉が、
一本の槍に背中から貫かれていた。
静寂。静寂。・・・静寂。
誰しもが、その槍の柄を震える手で握って踞っている、あのシベルに刺された男に視線を移していた。
「・・・もう、・・・もう従う義理はない!」
男の腹からは相変わらず生ぬるい血がぼたぼたと垂れている。しかし鍛錬を重ねてきた槍の先端は、精確に、メタトロンの胸・・・即ち形態維持装置を貫いていた。
メタトロンがゆっくり振り返る。ばさばさと音を立て、腕や顔の半分に萌えていた羽毛が、足を覆っている鱗が、雪の上に落ちてゆく。それは死を意味しているに違いなかった。
「・・・どうして?」
「・・・」
メタトロンの問いに、男は答えない。最早自分の命は残り僅かしかない。それは判りすぎる程判っていた。だが命尽きるその前に、この異形の獣を討ち取らねば。それが、チャーチを、キメラを増長させた自分の責任であると思った。
ずるり、と力なく槍の穂がメタトロンの胸から抜かれた。宝玉は粉々に砕けていた。そうして、ばたり、と、メタトロンの小さな身が、雪の上に頽れた。
「トロン!」
サンダルフォンは苦痛に顔を歪めながら、息絶えようとしている己の兄の許へと飛んでくる。だが宙を舞う羽がばさばさと抜け落ち、滑空する力を失い、倒れたメタトロンとは少し離れた処にこれもまた小さな身を墜落させた。それでも羽毛の抜けた翼を繰って、前へ、兄の元へと、這いずる。
「トロン、どうして!ねえ!駄目だよ、ふたりとも死ぬんだよ!なんで!
ずっと一緒に居るって、居場所がやっと出来たって、・・・なんで!なんでっ!!」
メタトロンはぴくりとも動かない。悲痛なサンダルフォンの絶叫のみが、雪原に木霊する。
「なんで、なんでこんな、なん、で、・・・な・・・ん、で・・・」
それは見るも気味の悪い、無残な光景であった。宝玉の力を無くした双子・・・ゾンビキメラが、物凄いスピードで朽ちてゆく。羽毛の剥がれ堕ちた顔の皮膚がずるりと垂れ、真っ白な髪の毛もばさり、ばさりと束になって雪の上に落ちてゆく。喉や胸、はだけた軍服の下から見えるのは、ずるずると流れる様に腐り落ちてゆく肉。それはあの毒花の匂いとは違う、生臭い、しかし何処か甘ったるい臭いを発しながら溶けて流れる。
ぶちぶちっ、ぶちん。
皆がゾンビキメラの最期に釘付けになっている最中、コロの姿はフィンレーテの隣にあった。がうっ、がうう、とうなり声を挙げながら、フィンレーテを縛っている蔦を噛み切ってゆく。力と支えを無くしてぐらりと地面に向かって蹌踉めいたフィンレーテの身を背中に乗せて、コロはシベルの許へと駆けた、駆けた、ひたすら駆けた。
これで終わりだ。フィンちゃんも無事だ。何もかも平穏に終わる。コロのうつろの胸が安堵に満たされていた。しかし、
その安堵を破る様に、再び、あの、シベルの肩を撃ち抜いた時の、ぱぁんっ、が、戦場に響いた。チャーチの悪あがきの様に、何度も、何度も。
コロの大柄な身体に幾つもの穴が空く。腕を吹き飛ばされ、コロはフィンレーテを乗せたまま雪原につんのめった。しかし疾走を止めようとしない。シベルの許へ、フィンレーテを届けようと、コロは必死に走る。
「あおーんっ!」
コロの遠吠えが、周囲の兵と同様呆気に取られていたシベルの鼓膜に届いた。コロ。はっとして、遠吠えの方角を見た。満身創痍、腕や足を吹き飛ばされ、それでも尚雪を掻き分ける様に、前へ、シベルの許へ進もうとするコロを見て、シベルもまた駆けた。
その瞬間。
ぴしっ、ツターン。
コロの首輪・・・丁度宝石がはめ込まれている部分が、銃弾により粉々に砕かれた。
コロの身体が瓦解してゆく。しかし最期の力を込めて、シベルの目の前にフィンレーテの身体を投げて、コロの身はばらばらになって勢いよく雪原に飛散した。
「コロおおおおおお!!」