戦況は完全に消耗戦状態に陥っていた。どちらの兵が先に尽きるか、その行方は誰にも判らない。結社と帝国の合同軍は防毒薬こそあるものの、薬とはそもそも服用者の体質で如何様にも効能や持続期間が変わるものである、必ずしもフィンレーテの毒の前に生き残れるとは限らず、時が経るにつれ雪の上にばたばたと転がる者が出て来た。それ以前に薬の効能は12時間、もうすぐ時間切れの時刻であった。また、そもそも雪原での戦闘に馴れていない帝国兵は雪に足を取られ、巧く身動きが出来ないでいた。その為、チャーチの白兵隊の前にいとも簡単に倒されてゆく。
一方のチャーチも苦境に陥っていた。どんなに雪の上での戦闘に馴れていようと、防毒マスクを剥がされてしまっては彼等の命は無いに等しい。防毒マスクが命綱であり、これを剥がされてしまえば一巻の終わり。
「老師!今すぐ大砲の発射を中止すべきです!このままでは我が方にのみ被害が・・・!」
チャーチ幹部の兵が進言しても、メタトロンとサンダルフォンは首を縦には振らなかった。
「いざとなったら儂等が出る。下っ端がいくらやられようが詮無き事」
その物言いと指揮の非情さに、チャーチの士気は徐々に削がれていった。
分厚いコートの下から、どぼどぼと温い血が溢れて止まらず、その鮮血はナイフを握るシベルのグローブをべっとりと濡らした。
「コロ!今のうちだ!・・・フィンを助けに行けえええええっ!!」
チャーチ兵ののど頸を鋭い牙でかっ切っていたコロがシベルの方を向き、そして遠くの・・・しかし遠目から見ても巨大な鉄の筒の先端に括り付けられたフィンレーテの方を見る。しべ、しべ、とフィンがシベルを呼ぶ声が小さく聞こえる。コロはシベルの命通り、立ちはだかるチャーチ兵の間を器用に縫う様に奔って凄まじいスピードで踏み固められた雪の大地を駆ける。
フィンちゃんが泣いてる。悲しんでる。怖がってる。
フィンちゃんを助けるのは、オレだ。
コロはそう言わんばかりに、唯々フィンレーテの方角を見上げて走った。途中途中でぱぁん、ぱぁんっ、と、銃声が響く。コロの骨が見える身体に幾つかの穴を開ける。しかしコロは怯まなかった。痛みなど感じないアンデッドの身体故か、それともそんな事に思いも及ばぬ程焦っているのか。
シベルはギリリと歯噛みして、男の影腹により深くナイフを押し込んだ。防毒マスクの下の口から絶叫がくぐもって聞こえる。
この男の実力ならば、避けようと思えば避けられた筈だ。何故避けなかったのか、避けられなかったのか、その疑問すらシベルの頭に浮かばない程激怒は深かった。
「・・・っ、これで・・・満足か」
男の脆弱な呟きが、シベルの頭を一気に冷やした。
「・・・」
「これで・・・君も立派な人殺しだ」
人殺し。その一言で身が竦んで、シベルは男の腹からナイフを抜き、蹌踉めく様に後退った。男の血で足許の雪は赤く染まり、その上に男は伏した。シベルの頭は完全に思考停止していた。人殺し。人殺し。
「何をやっている、シベル!さっさと狼に続いて敵陣を分断しろ!!」
息の荒くなってきたシベルの背後から、戦線を押し上げて前に来たベロニカの声が聞こえた。シベルが振り返った瞬間、その表情のなさにベロニカは一瞬息を呑んだ。
しかし、シベルが何をやったのか、何にショックを受けたのか、すぐにベロニカは察して・・・シベルの肩を叩き、喝を入れる様に叫んだ。
「殺らなければ殺られる!貴様は間違った事は何一つしていない!・・・貴様が真っ先に死ぬつもりで此処に居るなら邪魔なだけだ、後方に下がれ」
「・・・戦争、なんだよな」
「そうだ。これが戦争だ」
ベロニカは自分に言い聞かせる様に、再びシベルの肩から手を放し、剣を振りかぶって目の前のチャーチ兵を斬りにかかる。シベルは頭を振った。初めてひとを殺した。けれど、そんな感傷や何やらに浸っている暇はないのだ。立ち止まれば自分が倒れる。・・・そして何より、フィンを助けてやれない。
マーヴェラスは敏感に、チャーチの兵共の統率が取れていない事を感じ取っていた。その隙を縫う様に、結社の兵が敵兵を次々と薙ぎ倒し、段々と結社と帝国の合同軍をチャーチ中枢へと近づけてゆく。
不思議と憎さはなかった。相手はゾンビキメラ、という事実からかもしれない。これが只の人間相手なら、マーヴェラスはその非道さに激昂し、あの時、初めて双子の捕食行為を目にした瞬間、廊下から部屋に飛び込んでいただろう。だが相手はゾンビキメラである。浄化すべき存在である。マーヴェラスは嘗て教え子に事ある毎に、我々の目的は帝国やゾンビを打ち砕く事ではない、帝国の死霊術や自然の摂理に反したゾンビ達を在るべき姿に還す事だ、と解いていた。
マーヴェラスは哀れみさえ感じていた。しかしながら、胸の内に滾る憎しみからではない激怒・・・義憤とでも言えばいいのだろうか、そんなものを消そうとしても、あの食い殺された部下の顔が頭の中を過ぎってたまらなかった。
気付けば結社と帝国の合同軍の戦線は、大砲近くにまでせり上がっていた。
「ぎゃうっ!ぎゃうんっ!!」
襲いかかってくるチャーチ兵を薙ぎ倒しながら、コロは器用に蔦に爪を引っ掛け、大砲の発射口に括り付けられたフィンレーテの高さにまで鉄の壁を昇ってゆく。
その時。一閃。
コロの身体を、青白く光る剣が切り裂いた。
「調子に乗るでないわ、この犬ッコロがっ・・・!!」
防毒マスクの下の貌を激怒に歪め、サンダルフォンが前線に飛び出してきたのだ。コロもその一閃の勢いに耐えきれず、雪の上にぼふんと大きな身を墜落させた。
再びサンダルフォンが跳躍する。コロは言うことを聞かない身体に鞭打って、なんとか一撃を躱した。しかし思いもよらない、コロの背後から、全く同じ勢いの剣戟が襲いかかってきて、コロは背中をばっさりと斬られた。およそ人間業とは思えない軽々とした挙動で、メタトロンが助太刀に入ってきたのだ。
「トロン!お前さんは指揮に集中を!」
「がううううっ!!」
威嚇する様に吠え、コロは一瞬動きを止めたサンダルフォンに飛びかかり、その貌からマスクを剥ぎ取った!
「ふざけんな犬があああああ!!」
真っ白な肌に一筋、コロの牙か爪でつけられたひっかき傷を浮かべた顔を憤怒の表情に変え、黄石の瞳を殺意にぎらと光らせ、サンダルフォンは再び間合いを取ったコロに斬りかかった。
その瞬間。メタトロンははっとした。サンダルフォンの背後に居た彼・・・他でも無い彼等が放逐したマーヴェラスが、サンダルフォンを指さし、戦争に加わっている友軍敵軍全員に響き渡る様な大声で叫んだ。
「見よ、皆の衆!何故あの双子はマスクも防毒薬もないのにこの毒を目の前にして生きていられるのか!
他でも無い!彼奴等は人間ではない!キメラだ!我々の同胞を、故郷を滅茶滅茶にした化け物なのだ!!」