城田憲子さん、西田美和さん、まさかとは思いますが、この「安藤美姫」とは、あなたの想像上の 存在にすぎないのではないでしょうか

Sports Graphic Number 822号
美しき日本のフィギュア。〜Figure Skating 2013〜 822号/2013年2月7日発売

安藤美姫 「失われた“ミキ”を求めて」
舞姫が復活する日文◎中村計

わずか14歳で4回転を跳び、18歳で初の五輪を経験。
失意の時期も乗り越え、'11年に2度目の世界女王に輝くも、
選手人生の絶頂期に休養を宣言。約2年の月日が流れたが、
人々は何故、美姫がいればと想像し、復帰を待ち望むのか。
公私に渡って支え続けてきた関係者たちの証言から、
見る者すべてを惹き付ける、彼女の魅力の秘密を探った。

両手を開き、指先を嬉しそうに眺める。
「この爪、安藤がきっかけなの」
城田憲子の10本の爪には「銀ラメ」のマニキュアが施されていた。
城田は、日本スケート連盟の元強化部長だ。そのときの縁で、女子フィギュアスケーターの安藤美姫とは、今も親交が続いている。
安藤にお小言を言うのも「お目付役」の仕事だ。数年前のオフ、お洒落好きな安藤が爪を派手に装飾していたことがあった。
「その爪なんとかならないの? って怒ったんです。そうしたら『やってみてから言ってください』って返されて。それで塗ってみたら、物を持ったり、何かを開けるとき、便利なのよ。本当に丈夫で、爪が割れなくなった。それではまっちゃった。ははははは」
城田が見せた無邪気な笑顔は、はまった理由が「割れなくなった」からだけではないことを物語っていた。
我々が安藤に惹かれる理由——。その一端は、こんなところにもあるように思えた。


■安藤の復帰が予定より遅れている理由はただひとつ、コーチの不在。

安藤は今シーズンもまた、リンクに戻ってこなかった。
2011年、モスクワで開催された世界選手権で二度目の世界女王になった安藤は、そのまま休養期間に入った。城田がこう慮る。
「世界選手権のあとは、虚脱感に襲われやすい。だから、それはしょうがないと思った」
当初は、ソチ五輪のプレシーズンにあたる今季から復帰する予定だった。ところが昨年10月、2季連続となるGPシリーズ欠場を発表した。
理由はひとつ、コーチの不在だ。昨年3月に、休養に入る直前まで約5年間コンビを組んだニコライ・モロゾフにコーチを依頼したのだが断られ、そのモロゾフに代わる新コーチも見つけることができなかったのだ。

最長で4分10秒間、約60m×約30mの広い氷上で、自分ひとりに視線が注がれる世界。それがフィギュアスケートだ。重圧の中で唯一、自分の味方になってくれるのがリンクサイドに立つコーチである。その存在なくしてスケーターは戦えない。

■出来不出来の波も減り、これからというときに……。

安藤は昨年10月、欠場宣言するとともに、来年こそは復帰し、その後は引退の可能性が高いというところまで語った。つまり、ソチ五輪を含む'13-'14年が、安藤にとって現役最後のシーズンとなることがほぼ決定的になったわけだ。

それにしても、もったいなかったと思わずにはいられない。'10-'11シーズンの安藤は、6戦5勝と過去最高の成績を残していたのだ。
安藤の滑りは、安定感に欠ける——。
常にそう言われ続けてきた。その日の気分に左右されやすいからだ。本人も自著『空に向かって』の中で、こう悲嘆している。
〈私はシーズンによって、試合によって、出来不出来の波が激しい選手です〉
が、23歳にして気持ちの波がようやく穏やかになり、いよいよこれからというときに、表舞台から姿を消してしまったのだ。

■「美姫ちゃんの演技は血が通っているじゃないですか」

ただ、こうも思う。安藤の「不安定さ」は、天才性の表れでもあった、と。
国際スケート連盟認定のテクニカルスペシャリスト(技術審判)で、安藤に技術的なアドバイスをする小山朋昭はこう断言する。
「気持ちが入ったときの美姫ちゃんは、キム・ヨナでも足元にも及ばないと思う。キム・ヨナは作業になってる気がするんです。ここでこうジャンプすれば、何点入るみたいな。でも美姫ちゃんの演技は血が通っているじゃないですか」
そんな安藤にとって「安定」とは、ある意味では、退屈以外の何物でもなかったのかもしれない。不安定さは、安藤が誰より正直に、誰よりもドラマティックに生きている証でもあったのだ。
ここ数年の安藤はアーティスティックな面がより強調されるようになったが、そもそもは傑出したアスリートだった。

■安藤の才を探り当てたのは、浅田姉妹も指導した名伯楽。

天賦の才。最初にそのスイッチの在りかを探り当てたのは、名古屋を拠点に指導する名伯楽の門奈裕子だった。安藤は8歳のときに門奈のクラブに入り、次々と難易度の高いジャンプをマスターしていった。城田が話す。
「門奈先生の生徒さんは、みんな本当にジャンプが上手。軸作りがうまいんですよ」
ちなみに浅田舞・真央の姉妹も、門奈が指導するクラブ出身だ。
「白い氷の上に舞い降りた黒豹みたいでしたね」
そう振り返るのは、インストラクターを務める西田美和だ。安藤は中学2年生に上がると同時に、新横浜プリンスホテルスケートセンター所属の名コーチ、佐藤 信夫の指導を仰ぐため、週末だけ実家のある名古屋から横浜まで通った。当時、同リンクでコーチの手伝いをしていたのが西田だった。
「有名な4回転を跳ぶ子って、この子だってすぐにわかりましたよ。ちょっと色黒で、しなやかで、鋭くて」

■無防備な安藤が、4回転ジャンプで一躍舞台の主役に担ぎ出される。

安藤の周囲の風景を一変させたのは、その4回転ジャンプだった。中学3年生のとき、女子として初めて公式戦で4回転ジャンプを成功させると、知らない内に舞台に担ぎ上げられ、主役を演じなければならなくなっていた。西田が往時を思い出す。
「食事をしているとファンに囲まれるし、お手洗いまで男の人がついてきちゃったりしたこともある。ちょっと怖かったですね……」
だが安藤は、そんな状況に戸惑いながらも、まだどこかで楽しんでもいた。当時の記事を読み返すと、インタビュアーが、安藤が恋愛話などのプライベートなこ とまで平気で話すことに驚かされているシーンにたびたび出くわす。元来、安藤は無防備で、人懐っこい性格だった。だから、人から注目されることは嫌いでは なかったはずだ。
ただし「舞台」は、そうして役作りも化粧もせずに上がる場所ではない。好奇の目を容赦なく向ける観衆の前でそんなことを続けていたら、とてもではないが身が持たない。

■初めての五輪、惨敗した結果以上にショックだったこと。

その無理が露呈したのは'06年、高校3年生で迎えたトリノ五輪のときだった。
本番3日前の記者会見で、8歳のときに亡くした父親のことについて触れられると「そういうことにはお答えできません」と、壊れたように泣きじゃくった。
安藤にとって父親の記憶は宝石そのものだった。その宝石箱を強引に奪われ、こじ開けられたかのような気分になったのだ。
試合でも4回転ジャンプに失敗するなど精彩を欠き、初めてのオリンピックは15位と惨敗した。ただ、試合の結果以上にショックだったのは、その後、自分の周りから潮が引くように人が去っていったことだった。
『空に向かって』の中で、安藤はこう綴る。
〈そこで気がついたのは、結局記者の人たちは、話題性で自分を取材しているだけだった、ということです。(中略)私は人を信じることをやめました〉
当然のことと言えばそうだ。だが、それに気がつくのに、安藤は普通の人の何倍もの時間とエネルギーを費やした。西田が言う。
「素直すぎて失敗しちゃった……。でも、だから、ほうっておけないんですよね」

失意のどん底に沈んだ安藤を蘇らせたのは、モロゾフだった。仕事上モロゾフと付き合いのある小山はこう評価する。
「モ ロゾフほどの個性のある指導者は、そうはいない。この時の美姫ちゃんは、奥に入っちゃっていたから、引っ張りださないとダメだった。モロゾフは、彼女を 引っ張りだし、自分の力で飛び立てる所まで持っていった。気持ちが乗るまで時間のかかる子ですから。すごい大変な作業だったと思いますよ。」

コ ンビ結成1年目、'07年3月の世界選手権で、安藤は初めて世界女王の称号を勝ち取る。城田が「だんだんアーティスティックな部分を出したがるようになっ てきた」と指摘するように、その時の演技からは、今までにない妖艶さが漂っていた。「4回転」という看板を下ろしても、安藤は、世界で十分戦っていけるこ とを証明した。
彼女の感受性の強さをうかがわせるこんなエピソードがある。安藤は高校3年生のとき、静かな練習環境を求めてアメリカへ渡った。 そのとき世話役を買って出た西田が回想する「振付けの先生が、安藤に振付けをしながら、泣き出しちゃったことがあるんです。こんな裏の音まで拾えて、それ を表現できる繊細で、エモーショナルなスケーターは見たことがない!って」
安藤はアスリートとは別の、もうひとつの本性を表し始めていた。小山 がとりわけ覚えている演技は、モロゾフコーチ就任2年目'07-'08シーズンのショートプログラム「サムソンとデリラ」だ。旧約聖書の中に出てくる超人 サムソンと、その妻で魔性の女と呼ばれたデリラの物語だ。
「デリラが乗り移ってる気がした。正直、彼女は怪物になったと思いましたね。この選手はどこまでいっちゃうんだろう、と」
しかしモロゾフは劇薬だった。効き方も顕著だが、副作用も極端だった、表現力に磨きがかかる一方で、その年、安藤はまたしても感情の波と格闘していた。

 感じやすさとは、安藤の強さであり、もろさでもあった。もともと体型にコンプレックスを抱いていた安藤は拒食症に陥り、50kg前後あった体重が
43kgまで激減。'08年3月の世界選手権は、大会前の練習で左足肉離れを起こし、演技の途中で棄権して涙に暮れた。城田が振返る。
「モロゾフは、押すときはガーンと押す、それを跳ね返そうとする力がいい方向に出たことは確かだけど、いつもうまくいっていたわけではない。それで美姫ちゃんが苦悩する姿を見るのが辛かった」
この年のオフ、安藤は、周囲の人間からモロゾフから離れるよう散々説得された。だが最終的にはモロゾフの元に戻った。
<試合のときも、ただリンクサイドにいてくれればいいのです。いてくれるだけで、(中略)なぜだかわからないけれど、おかしいくらい強い気持ちに、自分は大丈夫だって思えてしまいます>(「空に向かって」)
おそらく2人は、周りの人間が理解できないところで深く結びついていたのだ。
安藤の選択は奏功した、翌'09年の世界選手権では、銅メダルを獲得し、二度目の世界大会の表彰台に立った。
'09年から専属トレーナーを務める川梅義和が、改心の演技として心に留めているのは'10年12月の全日本選手権だ。
「フリーの演技を終えた後、氷を蹴りながら、両腕でガッツポーズを決めたんです。あんな美姫ちゃん、見たことなかった。」
そのときまとっていたコスチュームの色は、安藤が一番好きだと言う黒だった。黒が好きな理由を本人はこう語る。
<白を除くと、黒はどんな色を混ぜても黒。どんな色もつぶせるという強いイメージ>(「家庭画報」'11年12月)
この日の安藤は、会場を自分色に染め上げることで、まさに他の演技者の色を全てつぶした。そうして土壇場で首位の浅田真央を逆転し、6年ぶりに全日本選手権のタイトルを奪取した、
安藤は何かにつけ浅田と比較され、どちらかというと「悪玉」扱いされ続けてきた。それだじぇに、口にしないまでも、絶対に負けたくないという思いもあったに違いない。
安藤は普段、メダルを獲りたいとか、勝ちたいといった結果至上主義的な言い回しは絶対にしない。だが城田はこう付度する。
「根っこは、勝ちたいに決まってる。でなきゃ、わざわざ試合に出ないですよ。」
そう、安藤は、一流の芸術家である前に、やはり一流の競技者なのだ。その二つの才能が頂点に達したのが、この二度目の世界女王になる直前の全日本選手権だった。

 常に自分に正直であろうとする安藤らしいけじめのつけかただった。
昨年秋、安藤は日本スケート連盟の強化指定選手辞退を申し出、今年1月1日、「社員としての義務を果たせていない」と所属先のトヨタ自動車を辞めた。
そうしたニュースを受け、引退報道も飛び交ったが、城田は「本人の中で復帰する意思は相当かたい」と話す。
安藤は休養中も、昨年3月、自分でアイスショーをプロデュースするなど積極的にショーに出演した。現在は、そのショーへの参加も自粛し、深夜にリンクを借りるなどしてひとりで練習を重ねている。その様子を見ている西田は、こう太鼓判を押す。
「2年のブランクなんて感じさせないですよ。彼女の演技力は、もう突き抜けている。」
そうは言っても、五輪となれば話は簡単ではないだろう。しかも、安藤は4年に一度の大舞台ではまだ結果を残しきれていない。
だが城田の中では、すでにソチ五輪までのストーリーは出来上がってるようだった。
「パーフェクトなコーチは見つからないかもしれない。でも、そこは安藤も大人になっているわけだから、互いに補えばいい。あちこちにぶつかって、そのたび に傷つき、でもそれを力にして、今、ようやくスケーターとして歓声の域に達しつつある。そういう選手だから、最後の最後、色は問わないまでも、(表彰)台 に登ってもいいのかなと思う。きっと大輪の花を咲かせてくれますよ。」

 城田は安藤の魅力を薔薇にたとえる。
「女性として魅力があるじゃない。セクシーだし、ちょっとコケティッシュでしょ。」
そしてこんな会話をつけ加えた。
「昔、安藤が胸の開いた練習着を着ていたら、ある選手が私に「注意してください」って言ってきたことがある。あんなのダメだ、と。ほんのちょっとなのに。女性としてどこかでかなわないという思いがあったんでしょうね」
安藤は城田にネイルアートの世界を教えたように、女性に美を植え付けるだけでなく、ときには嫉妬心も呼び起こさせる。
いや、話はまだあった。城田が声を潜める。
「男にしか興味のない"男"の人も、安藤は魅力的だって言ってましたよ」
どんな人間をも、あらゆる意味で絡め取る。それが安藤の魅力だ。
西田はトリノ五輪で荒川静香が金メダルを獲得したときのことをこう思い出す。
「最終日、会場全体が荒川選手の空気になってましたよね。ああ、獲るんだろうな、と。荒川選手もそうだったけど、美姫ちゃんも、色んな経験をしてそういう雰囲気をつくれる選手になったと思う」
そうだ、今度は安藤の番だ。奇跡よ、再び。
最終更新:2013年10月15日 22:00