2010年2月2日出版 ニコライ・モロゾフ著「キス・アンド・クライ」より

「もし2回練習したくないのなら、1回の練習でいいからやろう。
もしジャンプをしたくないのなら、スピンをしよう。スピンをしたくないのなら、ジャンプをしよう。
ジャンプもスピンもしたくないのなら、ただ滑ろう」と私は言った。
毎日、彼女をリンクに向かわせて練習させるための方法を探すゲームをしているようだった。
疲れる作業だった。他のコーチだったら「もう練習にこなくていい。こりごりだ」と言うかもしれない。
しかし、それは安易な方法だ。彼女がリンクに向かわなくなったら、すべてが台なしになってしまう。
(略)
また、美姫のように感情的なスケート選手は同じことを繰り返しやると疲れるので、
氷上でもいろいろ工夫をして遊びを取り入れた。

美姫は感情のアップダウンが激しく、常に小さなことに気をつけなければならなかった。
彼女の以前のコーチは、そのような感情のアップダウンに
いちいち対応するのにとても疲れて、ついていけなかったのだと思う。


また、彼女はコーチを替えてばかりいて、手を焼いた日本スケート連盟はオリンピックシーズン、
彼女をアメリカにいるキャロル・ヘイス・ジェンキンスにつかせた。
ジェンキンスは世界選手権5連覇、スコーバレーオリンピック金メダリストの、
フィギュアスケート界でも名だたる経歴の名コーチだ。
だが美姫は、ジェンキンスとの意思の疎通が図れないままオリンピックを終え、ジェンキンスのもとを去り、
幼いときにほとんどのジャンプを教えてくれたコーチ、門奈裕子のところに戻るところだった。(略)

美姫のエージェントは、私が本田武史のトレーニングをしていたときと同じIMGの女性担当者だった。
彼女は私にこう言ったものだ。
「でもニコライ、彼女は簡単に扱える人ではない」
(略)
するとそのエージェントは、「彼女が何をするかあなたはまだわかっていないのだ」と言う。
皆が皆、美姫と一緒に仕事をするのは難しいと思っている様子だった。(略)

皆、美姫にメンタル面の問題があると思っていた。
エージェントに限らず、いろいろな人からそう聞いていた。





思うように滑ることができず苛立ちを募らせていた彼女は、あるとき
「世界選手権を勝った後にスケートをやめればよかった」と口にした。

美姫は世界選手権の直後にも、やめる・やめないを口にしていたことがあった。
私は、あえてぶっきらぼうに、
「あの時点でやめることもできたが、続けるのを決断したのは君自身だ」と言った。
彼女は色をなして、
「でも、あなたが『やめるべきではない』と言ったんじゃない!」と食ってかかってきた。

実際に美姫はやめるべきではなかったし、私が彼女にそう言ったことも事実だ。
だが、私はその場ですぐ、非常に重要なことに気がついた。
美姫自身が自分で決めたはずの最終的なゴール、すなわち「オリンピックで優勝すること」に対して、
何ら責任を感じていないことに―。
私が続けるべきだと言ったから続けている?これは大問題だった。

「オリンピックに勝ちたい」と思い定めたのは、私ではない。
いつも傍らで支えてくれている彼女の母親でもなく、まして彼女を代表に選んだ日本スケート連盟でもない。
誰かが選んでくれた道だと思い違いをして進んでいって、たどり着けるほどオリンピックは甘くない。


私は荒治療に出た。
大会に一緒について行けないと告げたのだ。手助けはするが、コーチしてくれる人を他に日本で探しなさい、と。
「君の仕事はスケートをすることなのに、それをしなかった。4回転や3回転+3回転で失敗したのなら理解できる。
だがどうやって3回転ジャンプを5回も失敗をするんだ?」
もし彼女を朝の5時にたたき起こし、そのままスケート靴を履かせて滑らせてもNHK杯のときよりうまく滑れる。
それにもかかわらずあんなひどい滑りをしたのは、大会に参加することに対してまったく責任感がなかったからだ。

彼女は「この日には競技をしたくなかった」と言った。私は答えた。
「どういう意味だ。君はこの競技に参加するために練習し、エントリーしたのだろう?
だから私は言ってるんだ。もう君の競技には一緒について行けない」と。

コーチとして、スケート選手に、人間の成長という意味でも良い方向に進んでほしい。
それは自分の行動に対して責任を持つことも含まれる。(略)
美姫はショックを受け、私が一緒について行かなければスケートはできないと言った。
それからは懸命に練習に取り組み、全日本選手権のころには調子を回復させていった。



高橋大輔に教えるのは、何と嬉しく、心が躍る経験だっただろう。
まだ私はフィギュアスケートのコーチを始めて6年しか経っていなかった。
コーチとして6年というのは短すぎる期間だ。(略)
にもかかわらず多くの人は私から直接レッスンを受けることができるとは思っていなかった。
だから実は大輔が私だけのコーチを受けようと決意した最初のシングルスケーターだったのだ。
(略)
私は大輔という人間が好きで、それまでもっとも長く一緒に仕事をしてきた。

別れは電話だった。
私たちは長い時間、一緒にフィギュアスケートという仕事に取り組むことを通じて、
お互いに多くのことを学んだと思う。
私は大輔を立派なスケート選手に成長させたと思うし、何より彼は私をコーチとして育ててくれた。
彼と一緒に仕事をした期間のことを私はいつまでもずっと感謝の気持ちで思い起こすだろう。

大輔はその電話の1週間後、報道陣に私と別れたことを報告した。
「モロゾフは自分に自信を与えてくれた。感謝している」と言ってくれた。
彼と過ごした3年間に、私こそ感謝していると、そう伝えたい。
最終更新:2013年08月08日 16:20