児童ポルノ規制の歴史

1.商業児童ポルノの始まり

首相ヒルマール・バウンスガールド(左)(右は当時のニクソン米大統領)
1968年、デンマークで福祉主義の社会民主党を破り、急進自由党のバウンスガールド首相が誕生しました。なにしろ「急進リベラル」の政権ですから中絶の合法化はもちろん、当時の世界的な性解放の流れに乗ってポルノグラフィの解禁も世界で初めて実行しました(その後、これは全欧米的な潮流になります)。
しかし、この政策によって、バウンスガールド政権が予期しなかったことに小児性愛者(ペドファイル)向けの実写の「児童ポルノ」も大量かつ合法的に生産され、まき散らされたのです。具体的にその当事者となった企業は「Color Climax Corporation」(現存します)で、デンマークの優良納税企業でした…人権侵害ポルノ(児童ポルノのほか、強姦の実録ポルノなどもありました)をまき散らしたにもかかわらず。当然ながら、その反動として70年代から80年代にかけ、欧米諸国では児童ポルノは成人ポルノとは別物という認識が広まり、児童ポルノに限っては単純所持も含めて厳禁となっていきました。ただこのなか、性解放の流れの小児性愛者の残党が、草創期の「緑の党」に流入したことも確認されています(2013年のドイツ下院総選挙において、このことが暴露されたため、緑の党に大打撃となりました)。

2.児童買春ツアー

いっぽう、80年代に入り欧米や日本の小児性愛者は、その新天地を東南アジアに求めました。こうして「児童買春ツーリズム」が流行しました。当時、東南アジアには腐敗した政権が多く、この状況は黙認されました。
こうした状況に対し1989年署名の国連条約「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」では、少年兵などと並んで、児童買春や児童ポルノの禁止が盛り込まれました(日本での批准は1994年)。また東南アジアでの児童買春を根絶するため、国際NGOである「ECPAT」(当初は The International Campaign to End Child Prostitution in Asian Tourism、現在は END CHILD PROSTITUTION CHILD PORNOGRAPHY & TRAFFICKING OF CHILDREN FOR SEXUAL PURPOSES)が結成されました。
なお児童ポルノ問題とは別に、この頃の日本では青少年問題の一環として「有害コミック」問題が持ち上がりました。

3.遅れた日本の対応

第3回児童の性的搾取に反対する世界会議 2008ブラジル 西村康稔外務大臣政務官
日本政府は当初「児童の権利に関する条約」の児童ポルノ禁止については刑法175条(わいせつ物頒布)があれば充分、という姿勢でした。ところが1996年にストックホルムで開催された「第1回児童の商業的性的搾取に反対する世界会議」で日本人による(主に)東南アジアでの児童買春やヨーロッパ諸国で流通している児童ポルノ(当時、日本では「少女ヌード」は合法でしたが、欧米からすれば「児童ポルノ」そのものでした)の多くが日本製と指摘され轟々たる非難にさらされたこと、および日本において当時「援助交際」が社会問題化していたことから新法の検討を開始。1998年、当時与党であった自民・社民・さきがけ3党の議員立法によって提出され、さらに野党第1党であった民主をはじめ、公明、自由、共産各党との調整の上で翌99年、現在の「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律(児童買春・児童ポルノ禁止法)」が成立したのです。ただしマンガ・アニメ等は規制対象に含まれず、単純所持も禁止されませんでした。

4.そして現在へ

その後、2001年に日本・横浜で開催された「第2回児童の商業的性的搾取に反対する世界会議」を経て、子どもの権利条約選択議定書とサイバー犯罪条約に対応するために2004年に法律を部分的に強化する案が成立しました。ただしマンガ・アニメの規制や単純所持は含まれないままでした。
さらに2008年に自民党により「単純所持」の処罰化や「マンガ・アニメ規制の研究」を含む法案が提出されましたが、翌年に衆議院解散による審議未了で廃案。民主党が政権にいるあいだは国政レベルでは規制に慎重な声が根強く法律強化の声は出ませんでしたが、東京都政レベルでは青少年条例を強化しマンガを規制のターゲットとする「非実在青少年」問題が発生。さらに国政レベルでも再び自民党中心の政権が成立した後の2013年5月、今度は「単純所持」処罰化に加えて「マンガ・アニメ規制を3年間を目途に研究」とする項目を織り込んだ案が自民・公明・維新3党によって提出され、今日に至っています。
最終更新:2013年10月23日 00:17