小学3年生――プロローグ

~プロローグ~




京太郎「…はぁ」
京太郎父「どうした、京太郎」
京太郎「いや…何でもないよ」
京太郎父「そう…か。それなら良いんだが…」

父の返事を半ばシャットアウトしながら答えながら、少年は流れる景色を車の窓から見送った。
母親譲りの金色の髪を短く切りそろえたその顔は活発そうな造りをしている。
だが、そこには何とも覇気がなく、ぼんやりと朧気な感情に満たされていた。
それは目の前を流れる景色が少年 ―― 須賀京太郎にとって殆ど見覚えがないからだろう。

京太郎「(本当に…奈良になんて来ちまったんだな…)」

勿論、彼は奈良県に対して何か見下すような感情がある訳ではない。
だが、京太郎にとって自分の本拠地というのは住み慣れた長野であったのだ。
しかし、不変であると思い込んでいたそれは、今日という日を境に変わる。
それを感じさせる景色についつい京太郎はため息を吐いてしまうのだ。

京太郎「(転勤…かぁ)」

今年で小学3年生になる京太郎にはそれがどういうものなのか分からない。
ただ、分かっているのはその所為で地元の友人達と引き離されたという現実だけだ。
勿論、それを恨んだりする感情は彼にはない。
京太郎は故郷の長野にてイタズラ好きの悪ガキとして通っていたが、しかし、物分かりが悪い訳ではないのだから。
申し訳なさそうに話す両親の様子からそれがどうしようもない事くらい察する事が出来た。

京太郎「(友達…出来るかなぁ…)」

それでもそうやって不安を言葉にして浮かばせるのは彼が完全に割り切れるほど大人ではないからだ。。
幼稚園から気心の知れた友人たちと引き離された彼にとって、引っ越しというのはゼロからのスタートを意味するのだから。
それを新しい友人を作れると前向きに捉える事は、友人や学校が世界の全てである小学3年生の子どもには難しい。
親の決定を仕方ないと受け入れるだけで京太郎には精一杯だったのだ。

京太郎母「ほら、そろそろ阿知賀に入るみたいよ」
京太郎「阿知賀…」

母の言葉に呟き返すそれはとても空虚で現実味がなかった。
今日からそこで暮らすという現実がまるで嘘のように思えるくらいに。
しかし、どれだけ嘘だと現実ではないと言っても、世界は元には戻ってくれない。
その言葉がどれだけ聞きなれないものであっても、今日からそこで暮らさなければいけない事くらい京太郎も理解していたのだ。

京太郎「(皆…どうしてるかな…)」

そう思いながら京太郎が車の時計を見れば、まだ昼過ぎ程度であった。
何時もであれば、京太郎も友人たちと外を駆けまわっている時期である。
しかし、今の自分は友人達とは遠く離れた場所で、車に揺られていた。
それにもう一つため息を吐きながら、京太郎はぼぅっと車の窓を見つめる。

京太郎父「…ちょっと休憩するか」
京太郎母「そうね。丁度、コンビニもあるし」

そんな息子の様子に両親は心を痛めていた。
普段、元気過ぎるくらいに元気な息子が、見た事もないくらい落ち込んでいるのだから。
しかも、京太郎は我儘を言う事はなく、昏く静かに落ち込んでいた。
普段からは想像もつかないくらいに気落ちしたその姿に二人はどう声を掛けてやれば良いのか分からない。
そうやって息子が落ち込んでいる理由が自分たち大人の都合にあると分かっているが故に、無難な会話しかする事が出来なかった。

京太郎「…」

両親の言葉に京太郎は特に何か反応を示す事はなかった。
ただ、無感動にぼぅっと外を見つめているだけである。
勿論、両親の言葉は彼の耳にも届いているが、それだけだ。
その音を京太郎は認識する事はなく、ただ長野での友人たちに想いを馳せている。

京太郎父「京太郎はなにか欲しいものがあるか?」
京太郎「いや…俺は…」

社内を無言で満たした車はゆっくりとコンビニの駐車場へと入り込んだ。
そのままクルリと大きく回って停車スペースに停まったその感覚に京太郎の意識が現実へと引き戻される。
そんな彼に父が優しげに尋ねてくるが、今の京太郎には特に欲しいものなんてなかった。
普段であれば真っ先にお菓子やジュースの類を主張していただろうが、今の彼にはそれを欲しがるほどの元気もないのである。
京太郎母「…でも、見るだけ見に来たら?奈良限定のお菓子もあるかもしれないし」
京太郎「…ん。分かった」

母の言葉に京太郎は小さく頷いた。
正直、動くのは億劫ではあったが、そうやって誘われて断るほど京太郎は子どもではない。
両親が両親なりに自分に対して気を遣ってくれている事くらい分かっていたのである。
その理由までも何となく把握出来る京太郎にとって、それは両親の為にも断る事が出来ない提案だった。

京太郎「(ま、ポテチの一つでも買って貰おう)」

それだけで両親の気も少しはマシになるだろう。
昏く沈む頭の中でそう判断した京太郎はそっと後部座席の扉を開いた。
そのまま降り立つアスファルトの感触も、空気の味も長野と殆ど変わらない。
都会というほど都会ではないが、田舎というほど田舎ではない妙な地域。
自分の知る長野と似た、けれど、絶対的に異なるその雰囲気に慣れ親しむ事が出来ない京太郎はそっと肩を落とした。

京太郎「(…ん?)」

瞬間、京太郎の視界に一人の少女が映り込む。
その子は京太郎と同じくらいの年頃で…――



>>+2
末尾偶数:茶色の髪をポニーテールにしていた。
末尾奇数:桃色の髪をツインテールにしていた。





























>>茶色の髪をポニーテールにしていた

その少女は茶色の髪をポニーテールにしてまとめあげていた。
活発そうな雰囲気を小柄な身体に纏わせる彼女はジャージ姿でトテトテと勢い良く走っている。
何処か元気な小動物めいたイメージすら抱かせるその姿は可愛らしい。
だが、京太郎が彼女に目を惹かれたのはその容姿の所為ではなかった。

京太郎「(おつかいか何かの途中かな)」

少女はその手に大きな袋を下げていた。
スーパーの名前がでかでかと印字されているそれは彼女が阿知賀の住民である事を知らせる。
初めて阿知賀の地で出会った自分と同い年くらいの少女。
それに微かな興味を覚えながら、京太郎は少女から視線を外した。

京太郎「(まぁ…俺には関係ないか)」

少しだけ気になったが、あくまでもそれだけだ。
幾ら悪ガキで通っていた京太郎でも見知らぬ少女に話しかける事勇気に溢れている訳ではない。
ましてや小学三年生というのは少しずつ異性を異性として認識し始める年頃である。
走って行く少女が少女であるというだけで何となく声をかけづらかった。

??「ねぇ」
京太郎「えっ?」

そんな京太郎の思考とは真逆の方向に物事は進んだ。
突然、少女はその進路を変更したと思うと京太郎の近くまで走り寄ってきていたのである。
そのまま自分に話しかけてくる少女に京太郎は微かな困惑を覚えた。
まったく関係ないはずの自分が一体、どうしてこの少女に話しかけられているのか。
それが京太郎にとってはまったく分からなかったのだ。

??「もしかして阿知賀に引っ越してきた人?」
京太郎「…な…っ」

けれど、その困惑が解決しないまま少女の言葉が続く。
京太郎の境遇を言い当てるそれに彼は驚きに言葉を詰まらせる。
もしかして目の前の少女は心でも読めるんだろうか。
そんな事さえ思い浮かばせた京太郎の前で少女がクスリと笑った。

??「やっぱり。見慣れない顔だからそうだと思った」

種明かしするような少女の言葉に京太郎はこの辺りがあまり発展しているとは言えない事を思い出した。
恐らくこの辺りの住人たちはほとんどが顔見知りなのだろう。
そんな中、見慣れない家族連れが ―― しかも、車の後部座席まで荷物を満載にして ―― やってきたのだから引っ越しと判断するのが当然だ。
それにようやく思い至った京太郎は緊張を肩から抜き去り、そっと頷く。

京太郎「…あぁ。その通りだ」
??「へへ。じゃあ、お隣さんかもだね」
京太郎「…お隣?」

少女の浮かべたはにかんだ笑みに京太郎は首を傾げた。
一体、今の説明からどうしてそこまで話が飛躍するのか京太郎には分からない。
だが、恐らく自分には分からないなりの理由が、彼女にあるのだと言うのも京太郎には伝わってくる。
一見、元気一杯で何も考えていないような顔をしながらも、少女の指摘は正しいものだったのだから。

??「私のお隣さん今日引っ越してくるんだって」
京太郎「あぁ。そういう事か」

続く少女の言葉に京太郎は得心し、頷いた。
少女は既にお隣が今日引っ越してくるという情報を知っていたのである。
その上で引っ越ししてきたらしき家族が目に見えたからこそ近寄ってきたのだろう。
その飛び抜けた人懐っこさに微かな違和感を覚えるものの、さりとて、京太郎はそれを深く追求する気はなかった。

京太郎母「あら…もうお友達が出来たの?」

そんな二人に京太郎の母はタイミングを見計らって話しかける。
それは勿論、その小さな少女の乱入で、息子の暗い表情が少しは晴れたからだ。
いきなり息子が話しかけられてびっくりしたのは確かだが、その言葉の端々から彼女が悪い子ではない事が伝わってくる。
ならば、息子の気晴らしの為にもあまり介入するべきではないと思ったのだ。

京太郎「いや、まだそんなんじゃ…」
??「はいっ!」

母の言葉に京太郎が頬を赤く染めるのは、それが気恥ずかしかったからだ。
この年頃にもなると女の子と友達と言うだけで何となくこそばゆい感覚を覚えるのである。
しかし、少女の方はまったく気にしていないのか明るい笑みで頷いた。
それに京太郎がポカンとする間に少女はそっと一礼し、その綺麗な髪を揺らす。

??「私、高鴨穏乃って言います!」
京太郎母「あらあら」

にこやかで元気いっぱいの自己紹介に母も頬を綻ばせる。
少女の明るい性格をこれでもかと表現するそれについつい笑みを漏らしてしまう。
見ているだけで周囲の皆を明るくさせる天性の気質。
それを早くも発揮させる少女 ―― 穏乃に、母は微かに抱いていた警戒心を解いた。

穏乃「あの…そちらは須賀さんですか?」
京太郎母「えぇ。そうよ」
穏乃「やっぱり!じゃあ、お隣さん決定だね」
京太郎「ぅ…」

母の言葉に穏乃はにこやかな笑みを京太郎へと向ける。
まるでお隣になれた事が嬉しいのだとそう言わんばかりのそれに京太郎は顔を逸らした。
そうやって素直に喜ぶ彼女は、阿知賀という地に良い感情を抱けない彼にとってあまりにも眩しかったのである。

京太郎母「そう。じゃあ…出来ればで良いんだけれど…」

そんな息子の変化を母は目敏く気づいていた。
そうやって素直に友達だと言ってくれる少女を悪く思っていない事もまた。
もしかしたらこの少女は息子が阿知賀へと馴染むキッカケになってくれるかもしれない。
そう思った母は穏乃に悪いと思いながらもゆっくりと口を開いた。

京太郎母「この子引っ越してきたばかりだから、この辺りを案内してあげてくれない?」
京太郎「はぁ!?」

それに驚きの声をあげたのは勿論、京太郎だ。
出来るだけ早く阿知賀に馴染んで欲しいと思う母の気持ちなど知らない京太郎にとって、それは寝耳に水もいいところである。
思わず拒絶するような言葉を放ってしまうくらいに京太郎は驚いていた。

穏乃「え…?嫌なの?」
京太郎「う…いや…そういう訳じゃねぇけど…」

しかし、その拒絶に真っ先に反応したのは母ではなく穏乃の方であった。
その顔を悲しそうに落ち込ませながら、ポツリと聞くその姿に京太郎の胸が痛む。
元々、彼は悪ガキではあるものの、決してひねくれている訳ではないのだ。
自分に対して友達だと言ってくれた少女が表情を暗くするのを見て、放っておけるタイプではない。

京太郎「でも、ほら、荷解きとか色々あるし…」
京太郎母「そんなのアンタなんか居てもいなくても、ろくに戦力にならないわよ」
京太郎「ひでぇ…」

ストレートな母の言葉に逃げ道を塞がれたのを感じて、京太郎がそっと肩を落とした。
どうやら母はどうあっても、自分と穏乃を外へと放り出したらしい。
それに抵抗したい気持ちがない訳ではないが、反抗心に従えるほど京太郎は強情ではなかった。

穏乃「……ダメ?」
京太郎「……分かった。お前が良いなら…頼む」

それは伺うような穏乃の表情が悲しそうになっていくからだろう。
喜びをストレートに表す少女は、また悲しみも一緒に表現するのである。
さっきの笑みが嘘のように昏く染まっていく彼女を拒絶など出来ない。
面倒な荷解きの作業から逃げられるという打算もあって、京太郎は素直に頷いた。

穏乃「えへ…!じゃあ…まずはこっちね!」
京太郎「うわっ!?」

そんな京太郎の返事にその顔を喜色に染めた穏乃は彼の手を勢い良く取った。
そのままシュタタタと勢い良く走りだす穏乃に京太郎は引っ張られていく。
それに合わせて京太郎が足を前へと出すが、その距離は中々、縮まる事はない。
それは京太郎が姿勢を崩した状態から走りだし出遅れた事よりも穏乃の健脚が原因であった。

京太郎「(こいっつ…早ぇぇ…!)」

京太郎とて長野では悪ガキと呼ばれた風の子である。
その身体能力はクラスでも指折りのものであった。
だが、そんな京太郎が目の前の少女に追いつけない。
自分よりも一回り以上小柄な穏乃に距離を保たれたままなのだ。

京太郎「(こんおぉぉ!)」

元来、京太郎は負けず嫌いな質だ。
勉強はさておいても、運動では同年代では引けをとらないと思っている。
そんな自分が小柄な少女に距離を保たれているという状況に彼は悔しさを沸き上がらせる。
それは引っ越しが決まってから昏く落ち込んでいた彼の心を滾らせ、張りを与え始めていた。

京太郎「…っ!」
穏乃「(お…結構、早いじゃん…っ)」

そんな京太郎の猛追に穏乃がクスリと笑みを浮かべる。
先導するように前を走る穏乃には彼の表情は勿論、分からない。
だが、そうやって自分を追いかける為に本気になってくれている事だけはどんどんと近づく腕の距離から分かる。
それが嬉しいのはそんな風に本気で自分に着いてきてくれるのが幼馴染である一人の少女だけだからだろう。

穏乃「(ふふ…いい感じ…でも…負けないよ…!)」

自分の本気に本気で返してくれる男の子。
それに喜色を広げながら、穏乃はぐっと足に力を込めた。
それは勿論、穏乃もまた京太郎と同じくらいに負けず嫌いだからである。
年上ならばまだしも同年代相手ならば男の子にだって負けたくはない。
そう思う彼女はさらに速度をあげ、京太郎を引き離しにかかった。

京太郎「(く…そ…!なんだこの速度…!!)」

そんな穏乃の速度は坂道に入っても緩む事が殆どなかった。
それどころか山道に入って尚、その速度を維持し続けていたのである。
それは勿論、穏乃がそういった道にも慣れ親しんでいるという事が大きな原因なのだろう。
だが、それを知らない京太郎にとって、速度を緩めない穏乃は異質にも映るのだ。

京太郎「ぜー…はー…ぜー…はぁぁ…」

数分後、体力が底まで尽きた京太郎は穏乃の手を離してその場に跪いた。
今にも胃の中のものをリバースしてしまいそうなその感覚に肩を揺らす。
必死に酸素を求める肺を落ち着かせながら、京太郎は敗北感に打ちひしがれていた。
幾ら山道や坂道を走るのに不慣れだったとは言え、それは言い訳には出来ない。
自分が少女に負けたという事実だけが重く肩にのしかかる。

穏乃「大丈夫…?」

そんな京太郎に尋ねながら、穏乃は内心、申し訳なさを感じている。
京太郎が本気になって追いかけてくれるのが嬉しくてついつい調子に乗って全力を出してしまったのだ。
お陰で不慣れな京太郎は膝をつくようにして呼吸を整え、とても辛そうにしている。
それに胸を痛めながら、穏乃はそっと京太郎の背中を撫で擦った。

穏乃「…ごめんね…」

そのまま穏乃が謝罪するのは、そうやって男の子をグロッキーに追い込んだのが一度や二度ではないからだ。
今ではもうそんな事はないとは言え、小学校1,2年までは穏乃も一緒に男の子たちと遊んでいたのである。
だが、人並み以上に活力と体力に溢れている穏乃に男の子たちはついていけなくなった。
結果、性差を意識しだす頃には穏乃は男の子たちと距離を取られ始めていたのである。

京太郎「くっそ…こ、これで…勝ったと…思うなよ…」

昔、あんなに後悔していたはずなのに、また同じ失敗をしてしまった。
それに強い自責を覚える穏乃の前で京太郎は喘ぎながらそう漏らす。
しかし、その目はメラメラと対抗心に燃えており、折れてはいない。
寧ろ、何時かリベンジしてやるとばかりにその目はギラリと燃えていた。

穏乃「え…?」
京太郎「絶対…何時か…お、追い越してやる…からな…」

それに驚きの声を返す穏乃の前で京太郎はリベンジを誓う。
グッと握り拳を作るそこには自分に対する情けなさはあっても穏乃に対する怒りはない。
それが穏乃にとっては少しだけ新鮮で、けれど、信じられないものだった。

穏乃「…怒ってないの?」
京太郎「なんで…俺が怒るんだよ?」

実際、彼にとって情けないのは女の子についていけない自分の方なのだ。
穏乃がこうして走り回っていたのも好意であって悪意ではない事も分かっている。
それなのに穏乃に対して怒るのは、八つ当たりも同然だろう。
幾ら悪ガキであったとしても、そんな格好悪い真似はしたくない。
男の子というのは何時だって良い格好したがるイキモノなのである。

京太郎「はぁ…うし…。落ち着いた。待たせて悪いな」
穏乃「あ…うん」

けれど、そんな京太郎の反応が穏乃にとっては新鮮だった。
そうやって先に疲れ果てた男の子たちは大抵、自身への苛立ちを少女へとぶつけていたのである。
それは穏乃が元気一杯で体力が有り余っているものの、美少女と呼んでいい容姿だったという事もあるのだろう。
好きな子に格好つけたい構って欲しいという男の子独特の心理もあって、穏乃は少しずつ男の子たちと疎遠になっていたのだ。

京太郎「(つーか…こいつの手…どれだけ柔らかいんだよ…)」

勿論、京太郎とて穏乃の事を意識してはいる。
アレだけ体力に溢れているとは思えないくらい柔らかい手に女の子を感じているくらいだ。
だが、まだ穏乃と出会ったばかりの京太郎にとって、少女はまだ得体のしれない相手なのである。
警戒している訳ではないが、いきなり話しかけてきた事もあって、何となく収まりが悪い。
そんな相手をはっきりと意識するほど、二人の間にはまだ親密さは足りなかったのだ。

京太郎「んで…結局、何処に案内したかったんだ?」
穏乃「この先の展望台だよ」

京太郎の言葉に穏乃はゆっくりと歩き出す。
さっきのような失敗はしまいと自身に戒めるそれは疲れ果てた京太郎にとっては有難い。
さっきは大丈夫と言ったものの、まだまだ疲労は身体の中に残っているのだ。
それは何時かは若さから生まれる活力によって消え去るだろうが、まだまだ走れるほどの体力はない。
けれど、それに対する感謝を言うのは流石に情けなくて、京太郎はゆっくりと穏乃へとついていった。

京太郎「わぁ…」

数分後、視界が一気に開けた京太郎はその口から感嘆の声を漏らした。
そこは丁度、眼下にある阿知賀の地を見通せる絶好のスポットであったのである。
目を凝らせば人々が生活している姿が見られるその光景に根が素直な京太郎はすぐさま引きつけられた。
そんな京太郎にクスリを笑いながら、穏乃はそっと指を指す。

穏乃「ほら、あそこが商店街で…あっちが神社。で、あっちが旅館で…」
京太郎「すげー…」
穏乃「で…あそこの遠くにあるのが学校で…で、こっちが私達のお家」
京太郎「おー…」

穏乃の説明に子ども染みた感嘆を漏らしながら、京太郎は何度も頷いた。
簡単に有名どころだけ抑えるその説明は彼の心の中に刻まれる。
何も知らない阿知賀の地から、ほんの少しだけ知る阿知賀の地へと。
会ったばかりの少女の言葉で、彼の認識は昇華されていく。

京太郎「(…なんだ。結構、いいところじゃないか)」

そんな中で京太郎は少しだけ阿知賀の事を認め始めた。
勿論、長野に対する未練はあるし、友達たちの事だって忘れては居ない。
だが、そうやって穏乃に説明される街は少しだけ魅力的に思えた。
それは住み慣れた長野の地に比べるとまだやっぱり弱いものである。
しかし、ここも決して悪いところではない。
そう京太郎が思えたのは間違いなく穏乃の存在があったからだろう。

穏乃「どう?少しは…気も紛れた?」
京太郎「えっ?」

説明をあらかた終えた穏乃は京太郎にそう尋ねる。
それに少女の方へと向いた京太郎にはもう落ち込んだ色はない。
勿論、目の前に迫った新生活に期待を抱いている訳ではないが、過去に引きずられてもいない。
ごく自然な、長野に居た頃の京太郎が少しずつ顕になり始めていた。

穏乃「すっごい落ち込んでたみたいだから…気晴らしになるかなって…そう思って」
京太郎「あー…」

少しだけ気恥ずかしそうにそう漏らす穏乃に、京太郎は違和感を一つ解消させる。
あの場で穏乃が話しかけてきたのは何も引っ越ししてきただけではなかったのだ。
京太郎の事を心配し、元気づける為に、わざわざ話しかけてきてくれたのである。
ある意味ではお節介とも取られかねない彼女の優しさに京太郎は何と言えばいいのか分からない。

京太郎「…ありがとうな」

それでもその御礼の言葉だけは素直に京太郎の口から漏れでた。
それは勿論、穏乃の心遣いに感謝する気持ちが彼の中で最も強かったからだろう。
勿論、お節介と思わない訳ではないが、走り回って阿知賀を知った今、気分は大分、晴れやかになっていた。
それでも尚、素直じゃない答えを返すほど、京太郎はひねくれてはいない。

穏乃「えへへ…♪」

短い京太郎のお礼に穏乃はその顔を破顔させた。
自分のやった事が間違いではなかったのだと知ったそこには安堵の表情も見える。
何だかんだで穏乃もまた自分のやっている事がお節介ではないかと不安だったのだ。
それが今、報われた感覚に、穏乃はそっと京太郎に向かって手を差し伸べる。

穏乃「じゃあ、改めてよろしくね。えっと…」
京太郎「…京太郎。須賀京太郎だ」

握手を求める穏乃の言葉。
それに京太郎は少しだけ物怖じを覚える。
小学3年生にとって異性と手をつなぐと言うのはそれだけで「エロい」と言われかねない事なのだ。
しかし、今は誰かが見ている訳でもなく、また既にさっき手を繋いでいる。
それなのに躊躇しても今更だと判断しながら、京太郎は穏乃の手を力強く握り返した。

穏乃「よろしくね、京太郎っ♪」
京太郎「あぁ…よろしくな」

そんな彼に輝かんばかりの笑みと共に穏乃はそう返す。
喜色に溢れたその顔に京太郎の中の気恥ずかしさが幾分、マシになった。
それは京太郎の中で穏乃が異性ではなく、異性の友人としてカテゴライズされてきた証なのだろう。
だが、穏乃の手の柔らかさに少しだけドキドキする彼はそれに未だ気づかず… ――


―― そうして京太郎の阿知賀での生活が幕を開けたのだった。

















【System】
高鴨穏乃との思い出を一つ手に入れました。
最終更新:2013年09月21日 14:18