小ネタ:松実家の幸せな一日

―― 奇跡と言うのは果たして実在するのだろうか。

この答えは恐らく価値観によって解答が別れるだろう。
現在の社会に多く広がっている科学至上主義からすれば奇跡なんてナンセンスだ。
歴史上に起こったどんな出来事も【必然】と捉える人にとっても否となるだろう。
しかし、宗教的奇跡 ―― 所謂、蘇生 ―― を信じる人にとってはそれがあると断言できるものだ。
勿論、俺はここでそのどちらが正しいと論じるつもりはない。
ただ、ここで俺が主張したいのは俺自身がその中に当てはまらないという事だけ。

―― なにせ俺はほんの数年前に本当の奇跡を見たのだから。

数年前まで俺の妻 ―― 松実宥は病弱だった。
夏でもコートとマフラーを手放せない病的なまでの寒がり。
体温調節機能に明らかな異常があるとしか思えない彼女が健康なはずがない。
ほんの少しでも寒くなればあっという間に風邪を引き、夏場も外気と体温のバランスが崩れて体調を崩しやすかった。
大きな病に掛かったのは一度や二度ではなく、数年後の生存率は0だとまで医者に宣告されたのである。

―― でも、今の彼女は違う。

生存すら絶望的だと言われてから数年経った今、彼女は俺達の愛娘と共に俺の隣を歩いていた。
桜がゆらゆらと風に揺れて花びらが舞う道を、かつてからは比べ物にならない薄着で。
勿論、トレードマークのマフラーは身につけているが、ソレ以外は格好は人並みレベルである。
その過去を知る人間からすれば、今の彼女が松実宥とは分からないだろう。
それくらいに彼女の変化は著しいものだった。

「ママー」
「なぁに?」
「あのねあのね」

そんな宥とにこやかに会話する娘には彼女の異常は遺伝しなかった。
勿論、多少寒がりではあるが、それは人並みレベルのもので収まっている。
その首に赤いマフラーを巻いているものの、それは妻が仕事中以外はずっとそれを身につけている所為だ。
ちょっぴり背伸びしたい年頃の娘にとって、母親と一緒のものというのはそれだけで素晴らしいのである。

「ふふ…良い子だね」
「えへー」

そして、そんな風に笑い合う母子の姿は俺にとって何事にも代えがたい宝物だった。
一時はどちらも失う事を覚悟した俺にとって、二人が揃うその光景は夢の様なものである。
ほんの少し足を踏み外していたら今の結果はなかった…いや、踏み外さなくてもなかったであろう理想の現在。
それが今日もまた続いている事を確認すると、それだけで頬が綻ぶ。

「パパどうしたの?」
「いや、幸せだなって思ってさ」
「私も幸せー♪」

宥から優しさを受け継いだ自慢の愛娘は俺の表情の変化に目ざとく気づいてくれたのだろう。
にこやかにそう言葉を漏らしながら、俺と繋いだ手にギュッと力を入れた。
まるで自分もそうなのだと必死に伝えようとするその小さな力に空いた手で頭を撫でてやりたくなる。
けれど、俺のもう片方の手は荷物で塞がっていて、それをしてやる事は出来ない。

「…親子三人またこの道を歩けたな」
「そうだね」

この道は松実館 ―― 俺が婿入りした宥の実家に繋がっている。
距離にしてほんの10メートル程度のその道を俺は親子三人で歩くのが夢だった。
半ば叶わぬと知っていても、それでも俺はそれに縋るしかなかったのである。
だが、今はそれが間違いなく現実になっていて…けれど、信じきれなくて。
ついつい確かめるようにそう言ってしまう。

「大丈夫だよ、京太郎君」
「…ん」

そんな俺の気持ちに妻は気づいてくれたのだろう。
娘を挟んだ向こう側からニコリと微笑んでくれる。
彼女らしい慈愛溢れるそのほほ笑みに胸の不安がゆっくりと溶けていくのを感じた。

「私は…松実宥はここにいるよ、何時だって…京太郎君の隣にいるよ」
「…あぁ、そうだな」

何時だって宥の言葉は俺を安心させてくれる。
受験の時も、彼女の出産の時も…そして今も。
だからこそ、俺はあの時も安心して送り出す事が出来た。
医者でも絶望的だという状況の中でも、必ず二人で帰ってきてくれるとそう信じて。
結果、それは叶って…俺達は今、家族三人の幸せな時間を過ごす事が出来ている。

「パパ…大丈夫?」
「あぁ。なんたって俺には最高の奥さんがいてくれるからな」
「も、もう…京太郎君ったら」

ある種、俺にとって女神と言っても良い彼女は微かに頬を赤らめながら、笑みを浮かべた。
交際を初めてからもう10年近くにもなるが、未だに彼女は初で可愛らしいままである。
こんななんでもない言葉一つにも慣れていないように反応してくれる姿は正直、グッと来るものがあった。
娘がいなければぐっと抱き寄せて思いっきり抱きしめていたかもしれない。

「あ、パパまたいやらしい事考えてる顔だ…」
「ち、違う、そんな事ないぞ」

それを目敏く感じ取る辺り、4歳でももう女と言うべきか。
俺の表情にジト目を向ける愛娘に俺は首を振って否定を返す。
しかし、4年も俺の側にいた娘の疑心を止めるには至らなかったらしい。
妻譲りの愛らしい顔を疑わしそうなものに染めながら俺を見上げ続けている。

「そ、それよりほら、そろそろ家だぞ。中井さんも見えてるし」
「あ、ほんとーだ」

それでも話題を変えればすぐさまそっちに意識を引かれるのが子どもらしさだろう。
松実館の入り口に目を向けるその顔は歳相応の幼い少女のものだった。
急激と言っても良いその変化に俺はそっと胸を撫で下ろす。
お世辞にも格好いい大人であるとは言えないと言っても娘の前で醜態を晒したい訳ではないのだ。

「中井さーん」
「あぁ、お嬢様、おかえりなさい。それに旦那様と女将も」
「うん。ただいま」

そう挨拶してくれる彼女 ―― 中井さんはもう松実館に何十年も務めているベテランだ。
母親を早くに亡くした宥にとっては母親のように慕っている存在である。
女将不在であった頃の松実館を女将代理として支えたその手腕は今も健在だ。
お義父さんから経営を受け継いだ今でも、それは変わらず、俺も宥もとても頼りにしている。

「あ、それで…く」
「女将。…そう呼ぶように言ったよね?」
「…はい」

けれど、宥と中井さんの関係は最近、少しぎこちない。
昔はもっと和やかであったのに、宥はたまに高圧的な態度を取るようになった。
立場を強調するそれは、勿論、ほんの数年前までなかったものである。
俺の知る妻はもっと穏やかで、おおらかな人だったのだから。

「仕事中なんだよ?しっかりして貰わないと」
「ごめんなさい…」
「そんなに怒らなくても良いじゃないか」
「…うん…ごめんなさい」

それがただの八つ当たりではない事くらい俺も分かっている。
妻の言葉には焦りと恐怖がにじみ出ていて…何かに怯えているがこそのもの。
しかし、だからと言って、母親代わりでもあった古株を攻め立てる妻の姿というのは見るに耐えない。
だからこそ遮るように入れた言葉に妻は素直にコクンと頷き、謝罪の言葉を口にする。

「…でも、中井さんでも…次はないからね」
「申し訳ありませんでした…」

最後通牒のようなその言葉に中井さんはシュンと肩を落とす。
勿論、次はないと言っても、相手は女将代理を務め上げたほどのベテランだ。
実際に懲罰を与える理由にはまったく足りないし、クビにしようとすれば反発も大きい。
だからこそ、それはただの実行力を伴わない警告でしかない……はずだ。

―― …だけど、妻の表情はそう信じる事が出来ないくらいに冷たいものだった。

さっきまでが春の日差しのような暖かさだと例えるなら、今の彼女は極寒の吹雪のようだ。
敵対者には容赦しないと訴えるような冷たさは最早、凄みというものを超えている。
いっそ殺意すら感じるようなその激しい感情に嘘偽りなどまったく感じられない。
本当に次はない、そう理解しているからこそ、中井さんも落とした肩を震わせているのだろう。

「その…ごめんなさい。ちょっと俺が怒らせちゃった所為で…宥は今、ピリピリしてるんだ」

そんな彼女をフォローする為に放った言葉は勿論、嘘である。
ついさっきまで俺たちは和やかな雰囲気で買い物を済ませ、こうして帰ってきたのだから。
喧嘩なんてする要素は一つもなく、寧ろ、さっきまで彼女は俺を慈しむような表情を向けてくれていた。
しかし、それを一々説明するよりは全部、俺が泥を被ってしまった方が良い。
ただでさえ俺は入婿であり、経営者という一歩引いた立場で従業員を見なければいけないのだから。
松実館一のベテランと女将同士がいがみ合うよりはそっちの方が幾らかダメージも少ないはずだ。

「……旦那様…あの…」
「ん?」

そう思う俺の前で中井さんがチラリと視線を泳がせる。
何かを訴えるような、怯えるような、責めるような、助けを求めるような…そんな仕草。
でも、そこまで読み取る事が出来ても、俺には彼女の真意がまったく見えてこなかった。
こうして中井さんが何かを訴えようとするのが数回目となっても尚、俺はそれを聞かされる事がなかったのである。

「……いえ、なんでもありません。お心遣いありがとうございます」
「あっ…」

そして今回もまたそれが成就する事はなく、彼女は背を向けて去っていく。
何処か哀愁を感じさせるその背中に俺は何を言えば良いのか分からない。
勿論、経営者として従業員の悩みに真摯になるのは当然の事である。
だが、その背中に浮かぶ拒絶に似た色に俺はもう一歩踏み込む事が出来なかった。

「ほら、京太郎君、早く行きましょ?」
「パパお腹すいたよー」
「…あぁ、そうだな」

妻と娘の急かす声に俺はそっと視線を中井さんから外した。
こうして彼女から話してくれる意図を見せてくれているのだから、それまで待っても良いだろう。
そんな言い訳を胸に浮かばせながら俺は二人と一緒に松実館へと足を踏み入れる。
それから二人と過ごしている間に中井さんの事も忘れ、俺はいつも通りの幸せな日常へと埋没していったのだった。












「んぅ…」
「あら…もうおねむ?」
「んー…」

愛娘の表情の変化に真っ先に気づいたのは母親の方だった。
眠そうに瞼を擦る娘にクスリと笑みを浮かべながら、彼女はそっと時計に目を向ける。
時刻は既に9時 ―― ついさっき女将としての仕事を終えたばかりの彼女にとってそれはまだ宵の口だ。
出来ればまだまだ一杯、娘にも夫にも話したい事がある。

「じゃあ、もう寝ないとね」
「やだぁ…」

とは言え、それが娘の教育に良くない事くらい彼女は良く分かっていた。
彼女にとってその小さな少女は宝物の一つなのだから。
勿論、夫には及ばないものの、それでも無闇矢鱈と傷つけていいものではない。

「ほら、あんまり起きてるとお化けが来ちゃうわよ?」
「…お化けなんてパパがいれば怖くないもん…」

だからこそ脅かそうとした言葉に娘は愛らしい言葉を返す。
実の父親に全幅の信頼を向けるそれに母親の対面にいる彼が頬を綻ばせた。
父性を感じさせるその表情が、彼女は愛おしくて堪らない。
それが自分に向けられているものではないと知っていても尚、抱きしめたくなるくらいに。

「じゃ、パパが眠いから添い寝してくれないか?」
「………するー」

そんな父の言葉に、娘は数秒ほど迷いながらも頷いた。
それは恐らく娘も自分の眠気が限界であることを理解しているからだろう。
色々と背伸びしたい盛りだと言っても、成長と睡眠を求める身体の欲求には逆らえない。
意識がどれだけ大好きな二人と一緒にいたいと望んでも、それは叶わないのだ。

「でも、もう何処か行っちゃダメ…だよ…」
「はいはい。分かってるって」

そう言ってコタツから出た父の手を握りながら、二人は扉の向こうに消えていく。
その背中を笑みと共に見送ってから、彼女はそっとコタツの片付けに入った。
夫の残したものはともかく、娘の残したものは片付けておかなければいけない。
後三十分もしたら帰ってくるであろう夫との時間をより多く取る為だと彼女の身体はキビキビと動き… ――

「…あ」
「ん…」

その瞬間、別の襖から現れた存在に、彼女がその手を止めた。
どちらも身体を硬直させたまま視線を交わすその姿にはぎこちなさが残る。
けれど、それも数秒も経てば緩やかに消えていき、場に満ちた緊張も緩んでいった。
それは二人が長年一緒に過ごした親子であるであるからこそなのだろう。

「おとーさん、どうかした?」
「…少し茶が飲みたいと思ってな」
「そっか。じゃあ待ってて。入れてあげるから」

そう言って妻 ―― 今は娘はそそくさとキッチンの方へと向かう。
旅館の方の大きなものとはまた違うその小さなスペースを手慣れた様子で動いていく。
テキパキと手際よく動くその姿は老舗旅館の女将らしい優雅ささえ感じさせるものだった。
けれど、それを見つめる父は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、娘の首に巻かれた真紅のマフラーを見つめる。

「……まだそんな事をやってるのか?」
「そんな事って?」
「…宥のふりだ」

―― 瞬間、世界が凍った。

まるでその言葉が時を殺すキーワードであったように、二人の身体が止まる。
父は娘の背中を見つめ、娘は目の前のコンロをジィと見つめた。
二人ともその心臓が止まったかのように微動だにせず、時間だけが流れていく。
家電やコンロの稼動音がなければその場所だけ世界が切り取られたような沈黙。

「何を言ってるの?私は松実宥だよ」

それを打ち破ったのは振り返った娘の言葉であった。
ニコリと笑みを浮かべるその表情は、父の記憶にある長女のものと重なる。
だが、それは『一致』ではない。
どれだけ似ていても、それらしく振舞っていても、父にはその違いが気味悪いほどの違和感となって感じられた。

「…違う。宥はもう死んだんだ…」

瞬間、再び訪れる沈黙に父は肩を震わせる。
記憶にあるそれから数年経っても、彼はまだ乗り越える事が出来ていなかった。
未だに長女の事を夢に見るし、ふとした時に娘を思い出し、涙を流す事もある。
だが、彼にとって何より悲しいのはその死が全てを変えてしまった事だ。

「あの子を産んだ時に…死んだんだよ…」

勿論、その死は決して無駄ではなかった。
自らが選んだ青年との間に子どもを残してくれたのだから。
自分はきっと長くは生きる事が出来ないから、と親の反対を押し切って産んだ彼女にとってきっと満足な結果であっただろう、と父は思っている。
だが、だからと言って、失ったもののの大きさが、減ったりする訳はない。
どれだけそれらしい理由を並べ立てても、亡き妻から託された愛しい娘を『二人』も死なせてしまった悲しさは消えたりはしないのだから。

「だから…もうそんな真似はやめてくれ…玄」

もう一人の娘の名前を漏らすように呟きながら、彼はぎゅっと手を握りしめる。
震えるほどに力を込めたそれは己の無力感を否定しようとするような激しいものだ。
彼とて内心、分かっているのである。
最早、こんな事を言っても無駄なのだと。

「どうしたのおとーさん。そんなに悲しそうな顔をして」

そんな父の感情に応えるように娘 ―― 玄はニコリと笑った。
悲痛な彼の声など何も届いていないかのようなその表情に彼の胸は諦観を浮かべる。
こうして娘の事を ―― 姉を喪った妹の事を説得しようとしたのは一度や二度ではない。
だが、その言葉は幾度掛けても届く事はなく、こうして張り付いたような笑みで躱されてしまう。

「誰も死んでなんかいないよ。それに…『玄』って誰の事?」
「~~~っ!」

何より彼にとって恐ろしいのは自分の娘が自らの事を抹消しようとしている事だった。
天真爛漫と言っても良い笑みのまま放たれたそれは父の心に突き刺さる。
ソレは勿論、娘のそれが決して冗談でもなんでもないと分かっているからだ。
今や姉になりきっている妹は自らの存在を許しはしない。
それは長年松実館に務め上げ、彼女たちの母親と言っても良い存在に対しても同様だった。

「何度も言うように…私は松実宥だよ。おとーさんの一人娘の」
「玄…お前は…」

そんな娘に彼は何を言って良いのか分からない。
悲しいまでに姉になりきる彼女の気持ちは父ももう薄々気づいている。
だけど、だからこそ、そんな悲しい真似は止めさせなければいけない。
自分の存在を消し去ってまで、誰かの欠落を埋めようとしても幸せになれるはずがないのだ。

「…違うよ。私は玄じゃない。そんな名前の子じゃない」

だが、そんな彼の想いとは裏腹に娘はゆっくりと首を振る。
はっきりとしたその否定の感情に父は胸を詰まらされた。
そうまで彼女が必死になって自分を消そうとしているのは何も姉の事を慕っていたからではない。
姉の恋人であったあの健気な青年の事を、玄もまた愛しているからなのだ。

「…それに京太郎君の事壊したのはおとーさんでしょ?」
「そ、れは……」

だからこそ、彼は責めるような娘の言葉に返事をする事が出来ない。
自分の娘たちがそうまで愛した青年を、追い詰めたのは間違いなく彼なのだから。
娘を殺したのはお前だと、お前の所為で宥は死んでしまったのだと、そう彼はあの日、そう詰ってしまった。
自らが許したのも忘れて、それだけの覚悟があるのならと認めたのも忘れて。
喪ったものの大きさを忘れるように、一番身近でわかりやすい相手にそれをぶつけてしまったのだ。

「あの日…おとーさんが京太郎君を詰ったから…京太郎君は壊れちゃったんだ…」

結果、献身的に娘のことを支え、有望でもあった後継者は壊れてしまった。
部屋から出る事もなく、布団の中でひたすら謝罪を繰り返す廃人になってしまったのである。
八つ当たりする事でその感情を晴らす事が出来た父とは違い、彼にはそんな事が出来るほどの余裕すらなかったのだ。
喪失感と悲しみをそのまま自責へと変えるしかなかった京太郎にとって、それは当然の結果であると言えるだろう。

「…許さない。絶対に…『私』はおとーさんを…許さない」

その言葉がなりきった『姉』としての言葉なのか、或いは自分の中に僅かに残った『玄』としての言葉なのかもう彼女自身にも分からない。
彼女にとって確かなのは、目の前の彼が決して許せない存在であるという事だけだ。
世界で誰よりも愛しい存在を追い詰め、詰り、そして壊したのだから。
その罪はどれだけ父が自分たちを愛し、慈しみ、そして善行を重ね上げても消えはしない。
最早、『玄』でも『宥』でもなくなってしまった彼女にとってそれは世の中のどんな大罪よりも許す事が出来ないものなのだ。

「わ、わ…私…は…」

そんな娘から放たれる気配はまさに異形と言っても良いものだった。
一歩踏み出せば殺されかねないような殺意を彼は娘から感じている。
そして、それが嘘や錯覚だと思えない理由が父にはあるのだ。
どれだけ言い訳しても自分が彼を壊してしまったという現実に相違はない。
それは彼自身も認めるところであるが故に、なんとか取り繕おうとするその言葉は情けなく震えてしまう。

ピー

「…あ、お湯沸いたね」

瞬間、部屋に響いた掠れるような音に彼女から放たれる殺意がふっと消えた。
今にも跳びかかって殺されかねなかった雰囲気が霧散していく感覚に父は自分が呼吸を忘れていた事に気づく。
極度の緊張から開放された身体が酸素を求め、彼にハァと大きな呼吸を漏らさせた。
そんな父に背を向けながら、彼女はゆっくりと薬缶を傾け、準備した湯のみにお湯を注いでいく。

「…だからもう放っておいて。私達は今…幸せなんだから」
「……」

関わらないでと告げるようなその言葉に父は最早何も言う事が出来なかった。
下手な事を言えば、自分は娘に殺されてしまうと今日の事で嫌というほど知れてしまったのだから。
今まで彼女が抑えこんできたその狂気の片鱗に彼は完全に気圧されてしまっていた。
波乱はあったがおおまかに平凡に生きてきた彼でも、研ぎ澄まされた娘の殺意は本気だとはっきりと分かってしまったのである。

「(死ぬのは…怖くない)」

愛する妻を喪い、そして娘をも喪った彼にとって自分の命は軽いものだった。
後継者を追い込んでしまった事を心から後悔している彼にとって、それで済むなら済ませて欲しいと思っている。
だが、そうやって自分が娘に殺されたところで何も解決しないのは、悲しいほどに分かっていた。
寧ろ、自分が殺されれば、その分、残った最後の一人娘の狂気は深刻化するだろう。
実の父を手にかけた彼女にはもう後退の文字はなく、ただただ前に進む事しか出来ないのだから。

「…はい。どうぞ」
「ありが…とう」
「じゃあ、私は京太郎君とあの子のところに行ってくるから邪魔しないでね」

そうにこやかに去っていく娘の背中を彼は絶望にも似た気持ちで見送った。
自分が原因だと言うのに、最早、事態は自分の命でも償えないほど大きなものになっている。
心から幸せそうな娘のその仕草にそれを嫌というほど思い知らされながら、彼はそっと肩を落とした。
瞬間、沸き上がってくる自責と後悔の感情に思わずため息が漏れる。

「…私は…」

かつては娘が死んだ責任を押し付けたとは言え、彼は京太郎の事を認めていた。
宥と結婚する為だけに経営学部を卒業し、数年掛けてコネを作ってきた彼の経営手腕は本物である。
それこそそれまで実権を握っていた彼が奥に引っ込まざるを得ないくらいに優秀だ。
だからこそ、彼が玄と結婚したいというのであれば、幾らでも認めるつもりである。
しかし、現実の彼はずっと宥の幻影に囚われ、病的なまでに尽くす玄に気づきもしない。

「(彼を怨めば良いのか…或いは感謝すれば良いのか…)」

京太郎と出会ってからの宥は毎日が幸せそうだった。
初めての恋に初めての恋人。
それは引っ込み思案な少女の世界を色づかせるには十分過ぎるものだったのである。
それが恋から愛になり、結婚を経て尚も続かせてくれた事には感謝の念が耐えない。
娘が命の危険があったとしても出来る内に子どもを遺したいと言ったのはそれだけ京太郎の事を愛していたからだろう。

「(だけど…私は…)」

それだけであれば、話は美談で済んだのだろう。。
しかし、彼もまた宥の気持ちに応えるほどに大きな愛を妻に捧げていた。
結果、義父の言葉がキッカケとなって、彼は壊れ、自らの世界に引きこもってしまったのである。
そんな彼を現実へと引き戻したのは宥になりきった玄であり、そしてその時に玄もまた死んでしまった。
初めて会ったその時からずっと京太郎に恋い焦がれ、そして姉の恋人だと諦め続けていた玄は、彼の為に、そして、自分の為に自らを殺したのである。

「…どうしたら良いんだろうな…」

ポツリと漏らすその言葉に応えるものは誰もいなかった。
最早、松実家の中で狂っていないものなど誰もいないのだから。
彼もまた娘婿と娘の作り出す狂気の中に飲まれている。
自分以外の誰もが幸せで、けれど、決して幸せではない不気味な世界。
そんな世界の中で彼は… ――
最終更新:2014年02月04日 21:19