塀の上に止まった蝶へ網を被せるように。
いきなり、しかし丁寧に私の片手は捕らえられた。
無防備にテレビを見ながら、椅子に手をつき背を預けていた私は、そこではじめて同居人が真後ろに居た事に気付く。
「どうしたの、エデアさん?」
いつもの様に声をかける。
お決まりの常套句。
悲しそうな時も、嬉しそうな時も、まずそう聞くのが常だった。
そうして彼の反応を見れば、次に何をすれば良いのか大体分かる。
筈だった。
「エデアさん?」
「・・・・・・」
彼は無表情で私の手を取ったまま動かない。
ロボットの様に無機質な瞳をして、ただ立っている。
顔に出やすい人だから。
普段は相手が黙りこくってしまうと、再び口を開いてくれるまで幾らでも待てた。
「ねえ、エデアさん?」
不信感が言葉に乗る。
彼は微動だにしなかった。
・・・ふいに手が裏返された。
手の平から、手の甲へと。
そしてまた手の平へと。
彼の瞳に少し、意思が宿ってきた。
私の手の表裏を代わる代わる、まじまじと見つめだす。
次は指。
曲がり方を確認する様に、1本ずつ動かしてゆく。
なんとなく、好奇心が芽生えてきた子供の様にも見える。
若干くすぐったいが、暫く彼の好きなままにさせる事にした。
皮膚を押され、数度力が込められる。
弾力を確かめている様に思えた。
彼は人の手を忘れてしまったのだろうか?
だから、思い出そうとしているの?
手が軽く引っ張られる・・・。
ぼたっ。
床に広がる小さな染み。
「あ・・・」
いとも容易く、彼の手首が地に落ちた。
つい声が漏れてしまう。
暫しの沈黙。
足元に転がる潰れた手首に視線が集中する。
「・・・付け方、甘かったかね」
彼がはじめて、ぼそっと言葉を口にした。
「拭くわ。・・・布巾持ってくる」
そう言い、前かがみになり己の手首を拾い上げると、彼は台所の方へ向かっていった。
特に感情も篭っていない、変哲の無い立ち振る舞いだったが。
その背中が少し遠く見えて、私はどうしてか声をかけられなかった。