世界の意味とは?


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世界の意味について、不思議に感じること。

なぜ、この時代、この土地に生きているのか。

空を眺めた時に、ふと逆に空から、空を眺める自分を想像するときがある。
この身体がこの場所にあり、この家族のもとに生まれ、この人生を過ごしている。

 

なぜ、この体は、自分の意思で動いていると思うのか?

今自分が見ている風景は本当に自分が”見て”いるものか?
今動かした手や足は、本当に自分の意思で”動かした”ものか?

体は「動物」としてのヒトである自分の個体であり、

ヒトは、この世界に干渉するためのインタフェースなのだろうか。
自我、意識はヒトを人とするもので、ヒト自体だけでは人にはなりえない。
たとえば幼いころ、意識体はヒトの個体に宿る。そしてヒトは人になるのではないか。
ヒト自体には動物としての本能というべき自我があり、
それは常に内心声というインタフェースで人の意識に働きかける。


よく「人の意識はどこにあるのか」、「どこから生まれるのか」、という話題が議論されてきた。
意識本体はこの世の外にあり、インタフェースであるヒトに接続される。
もし意識をなくすほど酔っぱらったり薬を服用したりすると、インタフェースは遮断され、
理性なく本能むき出しのヒトとしての振る舞いを行うようになる。


なぜ、内心声はあるのか?

黙読したり、考え事をしたりする際、脳内で再生される音声、それが内心声と呼ばれる。
考え事だけでなく、外から聞こえる音すらもいったん脳内でシャドーイングされる。
なぜだろうか。何の意味があるのだろうか。

内心声はヒトと人のやり取りと考えられないか。
ヒトは外界からの音を理解することが難しいとすれば、
いったん内心声という形で人の意識に対して伝えることで解釈をゆだねる。
逆に、人の意識が理解し、考えて、決断したことを実際にヒトの意識に対して
語り掛けることで共有し、行動する。

内心声自体は双方から自由に語り掛けることができる。
ヒトからはヒトとしての自分自身の思考、欲望、感情そのものを垂れ流し、
それを人の意識が取捨選択する。これが理性や葛藤である。

よく禅などで行われる瞑想では、この内心声と向き合うことを手段として
自分とは何か、世界とは何かなどを悟る。
ヒトからの内心声は欲望や感情そのものであり、
欲望が満たされないことに対する不満も流れてくる。
不満や欲望をくみ取って主観的にとらえてしまい、没頭してしまうと、
フラストレーションや不安などに染まりきってしまい、鬱などの精神を病んでしまった状態になる。
人がもつ意思に対してヒトからの干渉を制御することで、
心の安らぎ、安定を図ることができるということに他ならない。

ところで、内心声はヒトと人をつなぐためだけのインタフェースなのだろうか。

人、意思は何のためにヒトをのっとるのだろうか?
そして人間の生活を送るうえで欠かせない内心声は何のためにあるのだろうか?

見えて、感じられるこの世界の外にある世界から、
この限られたこの世界に、このインタフェースを通じて干渉する。
内心声は見かたによっては思考の状況を実況していることになる。
ときに、外界に対して内心声は流れているのではないだろうか。
ふとそんなことを考えてしまう。


なぜ、人は眠るのか。

外界からのインタフェースとして使われるヒト。
ヒトの体が持っているバッファは有限であり、ほかの動物と同じ程度なのではないか。
適当な間隔で眠ることで、小さなバッファをフラッシュし、また必要な記憶はヒトの体におぼえこませる。
ほかにも(いちいち内心声でお伺いをたてなくてもすむようにしている)キャッシュを最適化したりと、
記憶の整理のため人は眠る、というのはおおよそ当たっているのではないか。

人間の睡眠には深さによって2種類に分類される。
夢を見やすい浅い眠り、脳も休む深い眠り。
眠りが二段階になっている理由は何なのか。

インタフェースとして、情報をモニタリングするほかに、インタフェース自身の身を守る必要がある。
そのため、記憶の整理中でも常にこの世界に対してセンシングし反応できる。
反面、浅い眠りの間は、センシングした情報も記憶の整理に巻き込まれ、夢に影響してしまうことがある。
この時の夢こそ、キャッシュの最適化作業真っ最中であり、記憶の定着化などを行っているのではないか。
しかし浅い眠りだけでは脳が休むことができないため、十分に安全が確保でき、区切りがついたとき、深い眠りに移る。
深い眠りは外界に対しての反応、応答性を犠牲にしても行わなければならないことを行っている。
たとえば身体の休息、外界への離脱による意識体側の休息、インタフェースアクセス方法の最適化などである。

 

意思と記憶は同一の場所に存在するのか?

意思がヒトの身体に接続するのならば、記憶はどこに蓄えられるのだろうか。
内心声でつながれたヒトの身体と人の意識。
一部はヒトの身体に、また一部は意識体に保存されるのではないか。
身体がおぼえる、とはまさにそのまま、ヒトの身体に染み込ませるもの、
頭でおぼえるものは意識体がおぼえること。

身体におぼえこませた記憶は、たとえば臓器移植などで他人に渡ったとしても残っており、
何かのきっかけで、人の意識とつながることができれば体得した記憶を引き出すことができるはずである。
一方、意識体側に保持している記憶は、ヒトの身体には依存しないことになり、
たとえインタフェースから切り離されても、言い方を変えれば意識が飛んでも死んだとしても、
意識に残る記憶はそのままである、となるのではないか。
(私はこういう考えもあり、誰かが亡くなってもそこに意識である人はいる、
として悲しむのは身体をなくしてしまったことに対してである)

これは裏を返せば意識に記憶を保持できれば、かつインタフェースから切り離し、
接続し直せれば、自在に離脱できるようになるのではないか。。。

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