■中部経典 第118経 「出入息念経」




〈 和 訳 〉

1  このように私は聞いた──
あるとき、世尊は、サーヴァッティに近い東園のミガーラマーター殿堂において、多くの、それぞれによく知られている長老弟子たち、すなわち、尊者サーリプッタ、尊者マハーモッガラーナ、尊者マハーカッサパ、尊者マハーカッチャヤーナ、尊者マハーコッティカ、尊者マハーカッピナ、尊者マハーチュンダ、尊者アヌルッダ、尊者レーヴァタ、尊者アーナンダ、またその他のそれぞれによく知られている長老弟子たちとともに、住んでおられた。
 ちょうどそのころ、長老弟子たちは新参比丘たちに教示し、教誡していた。ある長老弟子たちは、十人の新参比丘たちに教示し、教誡した。ある長老弟子たちは、二十人もの新参比丘たちに教示し、教誡した。ある長老弟子たちは、三十人もの新参比丘たちに教示し、教誡した。ある長老弟子たちは、四十人もの新参比丘たちに教示し、教誡した。またかれら新参比丘も、長老弟子たちに教示され、教誡されて、以前よりもさらに広大な、勝れた境地を了知した。

2  ちょうどそのとき、世尊は、その日、十五日の布薩に、すなわち自恣の満ちている満月の夜に、比丘僧団に囲まれて、露地に坐っておられた。
 ときに世尊は、それぞれの沈黙している比丘僧団を見回され、比丘たちに話しかけられた。
 「比丘たちよ、私はこの実践に満ちています。比丘たちよ、私はこの実践に心が満ちています。それゆえ、比丘たちよ、まだ得られていないものを得るために、到達していないものに到達するために、目のあたりに見ていないものを目のあたりに見るために、さらに一層、精進に務めなさい。私はこのサーヴァッティで、第四月のコームディー満月を待つことにします」と。
 地方の比丘たちは聞いた。『世尊はそのサーヴァッティで、第四月のコームディー満月を待たれるそうだ』と。かれら地方の比丘たちは、世尊にお目にかかろうと、サーヴァッティでを訪れた。
 かれら長老弟子たちは、さらに一層、新参比丘たちに教示し、教誡した。ある長老弟子たちは、十人の新参比丘たちに教示し、教誡した。ある長老弟子たちは、二十人もの新参比丘たちに教示し、教誡した。ある長老弟子たちは、三十人もの新参比丘たちに教示し、教誡した。ある長老弟子たちは、四十人もの新参比丘たちに教示し、教誡した。またかれら新参比丘も、長老弟子たちに教示され、教誡されて、以前よりもさらに広大な、勝れた境地を了知した。

3  ちょうどそのとき、世尊は、その日、十五日の布薩に、すなわち第四月のコームディー満月の、満ちている満月の夜に、比丘僧団に囲まれて、露地に坐っておられた。ときに、世尊は、それぞれの沈黙している比丘僧団を見回され、比丘たちに話しかけられた。
 「比丘たちよ、この会衆は饒舌がありません。比丘たちよ、この会衆は饒舌を離れ、純粋であり、真髄のうちに確立されています。
 比丘たちよ、この比丘僧団はそのようなものです。比丘たちよ、この会衆はそのようなものです。すなわち、供養にふさわしいもの、真先の供養にふさわしいもの、信施にふさわしいもの、合掌にふさわしいもの、世間の無上の福田、そのような会衆です。
 比丘たちよ、この比丘僧団はそのようなものです。比丘たちよ、この会衆はそのようなものです。すなわち、そこに少し施されたものが多くなり、多く施されたものがより多くなる、そのような会衆です。 
 比丘たちよ、この比丘僧団はそのようなものです。比丘たちよ、この会衆はそのようなものです。すなわち世界には見ることが難しい、そのような会衆です。
 比丘たちよ、この比丘僧団はそのようなものです。比丘たちよ、この会衆はそのようなものです。すなわち、数多のヨージャナの距離を、食糧袋を持ってでも会いに行くのにふさわしい、そのような会衆です。

4   比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、阿羅漢であり、煩悩が尽き、住み終え、為すべきことを為し、負担を下ろし、自己の目的に達し、生存の束縛を断ち、正しく知って解脱している者たちがいます。 比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちがいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、五つの下位の束縛の滅尽によって、化生者となり、そこで完全に滅する者として、その世界から還らない者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、三つの束縛の滅尽により、貪・瞋・痴が薄いことにより、一来者となり、ただ一度だけこの世界に戻って来て、苦の終わりを作るはずの者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、三つの束縛の滅尽により、預流者となり、破壊しない者、決定者としてすぐれた覚りに趣く者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、四念処の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、四正勤の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、四神足の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、五根の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、五力の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、七覚支の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、聖なる八支の道の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、慈しみの修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、憐れみの修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、喜びの修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、平静の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、不浄の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、無常想の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、出入息念の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
比丘たちよ、出入息念は修習され、復習され、大きな果報、大きな功徳があるものになります。比丘たちよ、出入息念は修習され、復習され、四念処を満たします。四念処は修習され、復習され、七覚支を満たします。七覚支は修習され、復習され、明と解脱を満たします。

5  それでは、比丘たちよ、出入息念は、どのように修習され、どのように復習され、どのように大きな果報、どのように大きな功徳があるものになるのか。
 比丘たちよ、ここに比丘は、森に行くか、樹下に行くか、空屋に行って、結跏し、身を真直ぐに保ち、全面に念を凝らして坐ります。
 かれは、念をそなえて出息し、念をそなえて入息します。
 長く出息するときは 〈 私は長く出息する 〉 と知り、あるいは、長く入息するときは 〈 私は長く入息する 〉 と知ります。
 また、短く出息するときは 〈 私は短く出息する 〉 と知り、あるいは、短く入息するときは 〈 私は短く入息する 〉 と知ります。
 〈 私は全身を感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は全身を感知して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は身行を静めつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は身行を静めつつ入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は喜びを感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は喜びを感知して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は楽を感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は楽を感知して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は心行を感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心行を感知して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は心行を静めつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心行を静めつつ入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は心を感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心を感知して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は心を喜ばせつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心を喜ばせつつ入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は心を定めつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心を定めつつ入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は心を解脱させつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心を解脱させつつ入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は無常を観つづけて出息しよう 〉 と学び、 〈 私は無常を観つづけて入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は離貪を随観して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は離貪を随観して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は滅尽を観つづけて出息しよう 〉 と学び、 〈 私は滅尽を観つづけて入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は捨離を観つづけて出息しよう 〉 と学び、 〈 私は捨離を観つづけて入息しよう 〉 と学びます。
 比丘たちよ、出入息念は、このように修習され、このように復習され、大きな果報、大きな功徳があるものになります。

6  比丘たちよ、出入息念は、どのように修習され、どのように復習され、四念処を満たすのか。

 比丘たちよ、比丘は、 ── 長く出息するときは 〈 私は長く出息する 〉 と知り、あるいは、長く入息するときは 〈 私は長く入息する 〉 と知ります。また、短く出息するときは 〈 私は短く出息する 〉 と知り、あるいは、短く入息するときは 〈 私は短く入息する 〉 と知ります。〈 私は全身を感知して出息しよう 〉 と学び、〈 私は全身を感知して入息しよう 〉と学びます。〈 私は身行を静めつつ出息しよう 〉と学び、〈 私は身行を静めつつ入息しよう 〉と学びます。 ── そのとき、比丘たちよ、比丘は身において身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。比丘たちよ、私はこれを、もろもろの身におけるある一つの身、すなわち出入息である、と説きます。それゆえ、比丘たちよ、そのとき、、比丘は身において身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。 ( 1 )

 比丘たちよ、比丘は、 ── 〈 私は喜びを感知して出息しよう 〉と学び、〈 私は喜びを感知して入息しよう 〉と学びます。〈 私は楽を感知して出息しよう 〉と学び、〈 私は楽を感知して入息しよう 〉と学びます。〈 私は心行を感知して出息しよう 〉と学び、〈 私は心行を感知して入息しよう 〉と学びます。〈 私は心行を静めつつ出息しよう 〉と学び、〈 私は心行を静めつつ入息しよう 〉と学びます。 ── そのとき、比丘たちよ、比丘はもろもろの受において受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。比丘たちよ、私はこれを、もろもろの受におけるある一つの受、すなわちもろもろの出入息についてよく思惟することである、と説きます。それゆえ、比丘たちよ、そのとき、、比丘はもろもろの受において受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。 ( 2 )

 比丘たちよ、比丘は、 ── 〈 私は心を感知して出息しよう 〉と学び、〈 私は心を感知して入息しよう 〉と学びます。〈 私は心を喜ばせつつ出息しよう 〉と学び、〈 私は心を喜ばせつつ入息しよう 〉と学びます。〈 私は心を定めつつ出息しよう 〉と学び、〈 私は心を定めつつ入息しよう 〉と学びます。〈 私は心を解脱させつつ出息しよう 〉と学び、〈 私は心を解脱させつつ入息しよう 〉と学びます。 ── そのとき、比丘たちよ、比丘は心において心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。比丘たちよ、私は失念の者、不正知の者に出入息念を説くことはありません。それゆえ、比丘たちよ、そのとき、、比丘心において心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。 ( 3 )

 比丘たちよ、比丘は、 ── 〈 私は無常を観つづけて出息しよう 〉と学び、〈 私は無常を観つづけて入息しよう 〉と学びます。〈 私は離貪を随観して出息しよう 〉と学び、〈 私は離貪を随観して入息しよう 〉と学びます。〈 私は滅尽を観つづけて出息しよう 〉と学び、〈 私は滅尽を観つづけて入息しよう 〉と学びます。〈 私は捨離を観つづけて出息しよう 〉と学び、〈 私は捨離を観つづけて入息しよう 〉と学びます。 ── そのとき、比丘たちよ、比丘はもろもろの法において法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。かれは、その貪欲と憂いの捨断を慧によって観て、よく観察する者になります。それゆえ、比丘たちよ、そのとき、、比丘はもろもろの法において法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。 ( 4 )

 比丘たちよ、出入息念は、このように修習され、このように復習され、四念処を満たします。

7 比丘たちよ、四念処は、どのように修習され、どのように復習され、七覚支を満たすのか。

 比丘たちよ、比丘が身において身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住むならば、そのとき、かれに念が確立しており、失念していません。比丘たちよ、比丘に念が確立しており、失念していなければ、そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は念というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 1 )

 かれはそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ります。比丘たちよ、比丘がそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到るならば、そのとき、比丘は法の吟味というというすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は法の吟味というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の法の吟味というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 2 )

 かれが、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ると、不動の精進は開始されたものになります。比丘たちよ、比丘がその法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到り、不動の精進が開始されたものになるならば、そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は精進というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 3 )

 精進が開始されると、無味の喜びが生じます。比丘たちよ、比丘に精進が開始され、無味の喜びが生じるならば、そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は喜びというすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 4 )

 心が喜ぶとと、心も軽快になります。比丘たちよ、比丘が心喜び、身も軽快になり、心も軽快になるならば、そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は軽快というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 5 )

 身が軽快になり、楽になると、心は安定します。比丘たちよ、比丘に身が軽快になり、楽になり、心が安定するならば、そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は禅定というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 6 )

 かれは、そのように安定した心をよく観察する者になります。比丘たちよ、比丘がそのように安定した心をよく観察する者になるならば、そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は平静というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 7 )

8  比丘たちよ、比丘がもろもろの受において受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住むならば、そのとき、かれに念が確立しており、失念していません。比丘たちよ、比丘に念が確立しており、失念していなければ、そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は念というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 1 )

 かれはそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ります。比丘たちよ、比丘がそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到るならば、そのとき、比丘は法の吟味というというすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は法の吟味というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の法の吟味というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 2 )

 かれが、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ると、不動の精進は開始されたものになります。比丘たちよ、比丘がその法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到り、不動の精進が開始されたものになるならば、そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は精進というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 3 )

 精進が開始されると、無味の喜びが生じます。比丘たちよ、比丘に精進が開始され、無味の喜びが生じるならば、そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は喜びというすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 4 )

 心が喜ぶとと、心も軽快になります。比丘たちよ、比丘が心喜び、身も軽快になり、心も軽快になるならば、そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は軽快というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 5 )

 身が軽快になり、楽になると、心は安定します。比丘たちよ、比丘に身が軽快になり、楽になり、心が安定するならば、そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は禅定というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 6 )

 かれは、そのように安定した心をよく観察する者になります。比丘たちよ、比丘がそのように安定した心をよく観察する者になるならば、そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は平静というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 7 )

9  比丘たちよ、比丘が心において心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住むならば、そのとき、かれに念が確立しており、失念していません。比丘たちよ、比丘に念が確立しており、失念していなければ、そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は念というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 1 )

 かれはそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ります。比丘たちよ、比丘がそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到るならば、そのとき、比丘は法の吟味というというすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は法の吟味というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の法の吟味というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 2 )

 かれが、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ると、不動の精進は開始されたものになります。比丘たちよ、比丘がその法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到り、不動の精進が開始されたものになるならば、そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は精進というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 3 )

 精進が開始されると、無味の喜びが生じます。比丘たちよ、比丘に精進が開始され、無味の喜びが生じるならば、そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は喜びというすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 4 )

 心が喜ぶとと、心も軽快になります。比丘たちよ、比丘が心喜び、身も軽快になり、心も軽快になるならば、そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は軽快というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 5 )

 身が軽快になり、楽になると、心は安定します。比丘たちよ、比丘に身が軽快になり、楽になり、心が安定するならば、そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は禅定というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 6 )

 かれは、そのように安定した心をよく観察する者になります。比丘たちよ、比丘がそのように安定した心をよく観察する者になるならば、そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は平静というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 7 )

10  比丘たちよ、比丘がもろもろの法において法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住むならば、そのとき、かれに念が確立しており、失念していません。比丘たちよ、比丘に念が確立しており、失念していなければ、そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は念というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 1 )

 かれはそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ります。比丘たちよ、比丘がそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到るならば、そのとき、比丘は法の吟味というというすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は法の吟味というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の法の吟味というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 2 )

 かれが、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ると、不動の精進は開始されたものになります。比丘たちよ、比丘がその法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到り、不動の精進が開始されたものになるならば、そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は精進というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 3 )

 精進が開始されると、無味の喜びが生じます。比丘たちよ、比丘に精進が開始され、無味の喜びが生じるならば、そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は喜びというすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 4 )

 心が喜ぶとと、心も軽快になります。比丘たちよ、比丘が心喜び、身も軽快になり、心も軽快になるならば、そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は軽快というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 5 )

 身が軽快になり、楽になると、心は安定します。比丘たちよ、比丘に身が軽快になり、楽になり、心が安定するならば、そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は禅定というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 6 )

 かれは、そのように安定した心をよく観察する者になります。比丘たちよ、比丘がそのように安定した心をよく観察する者になるならば、そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は平静というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。 ( 7 )

 比丘たちよ、四念処は、このように修習され、このように復習され、七覚支を満たします。

11  比丘たちよ、七覚支は、どのように修習され、どのように復習され、明と解脱を満たすのか。
 比丘たちよ、ここに、比丘は遠離 に基づく、滅尽に基づく、捨棄に基づく念というすぐれた覚りの部分を修習します。
 比丘たちよ、ここに、比丘は遠離 に基づく、滅尽に基づく、捨棄に基づく法の吟味というすぐれた覚りの部分を修習します。
 比丘たちよ、ここに、比丘は遠離 に基づく、滅尽に基づく、捨棄に基づく精進というすぐれた覚りの部分を修習します。
 比丘たちよ、ここに、比丘は遠離 に基づく、滅尽に基づく、捨棄に基づく喜びというすぐれた覚りの部分を修習します。
 比丘たちよ、ここに、比丘は遠離 に基づく、滅尽に基づく、捨棄に基づく軽快というすぐれた覚りの部分を修習します。
 比丘たちよ、ここに、比丘は遠離 に基づく、滅尽に基づく、捨棄に基づく禅定というすぐれた覚りの部分を修習します。
 比丘たちよ、ここに、比丘は遠離 に基づく、滅尽に基づく、捨棄に基づく平静というすぐれた覚りの部分を修習します。

 比丘たちよ、七覚支は、このように修習され、このように復習され、明と解脱を満たします」と。
 このように世尊は言われた。
 かれら比丘は喜び、世尊が説かれたことに歓喜した、と。


〈 和 訳・おわり 〉
最終更新:2013年11月02日 21:52